「後は華元(かげん)の働き次第だ」
蔡信は骨の髄まで疲れているにも拘らず、眠れぬ夜を過ごしそうな気がしていた。
斉軍は右軍と左軍は死傷者を出していたが陣形を組み直すことに問題はなかった。さらに中軍はいまだ無傷であった。
斉軍は累々と横たわる死体を見守るように野営をした。戦闘の疲労と眠れぬ夜を二日過ごした斉兵は、倒れるように眠り込んだ。
その夜、華元は魯兵三千を率いて、息を殺すようにして船で斉軍の後方に密かに乗り着けた。
足音を消して斉軍陣地まで忍び寄ると、突然鐘や太鼓を打ち鳴らし斉軍陣地に大声を上げて斬り込んだ。
「魯軍一万の夜襲だ。逃げろ」
華元は太鼓を打って叫んだ。
「早く逃げろ。殺されるぞ」
華元は声が涸れるほど叫んでいた。
三千の魯兵が狂ったように金や太鼓を打ち叫んでいた。
時を同じくして、魯の本隊が疲れ切った体を引きずるように斉軍に近寄って声を上げ、太鼓を打った。最後の力を振り絞るようにして石弓の部隊は斉軍の陣地に火矢を放った。
「何の騒ぎだ」
斉の中軍陣営にいた将軍田頼(でんらい)は当直の兵士に聞いた。
「魯軍による夜襲のようであります」
「急ぎ兵を整えよ」
田頼は武将の嗜みとして戦場では鎧を着たまま寝ていた。
「篝火を増やせ」
夜襲に備えていた中軍は、金や太鼓の音を聞いても慌てる事なく陣形を整えた。
規律ある兵士達の掛け声が響いた。やがて篝火の数が増やされ、中軍の陣営が夜空に煌々と浮かび上がった。この篝火がとんでもない結果を招くことになるとは、田頼さえも予想できなかった。
睡眠不足と戦いで疲れ切った右軍と左軍の兵士達は、隊内の規律を忘れ鎧や冑も脱いで寝ていた。怒涛のような火矢が大きな弧を描いて泥のように寝ていた斉の兵士に降り注いだ。
驚いて我を忘れた兵士は、裸で逃げ惑う者や、味方同士で斬りあう者までいて、さらなる混乱を招いた。やがて夜襲を企てた呉起でさえ想像もしなかったことが起きた。
恐怖に駆られた兵士達は、篝火で明るくなった中軍の陣営に、蛾が群がるように雪崩れ込んだ。
中軍の兵士も、走り寄ってくる暴徒と化した自軍の二倍近い兵士達に巻き込まれて混乱に陥った。規律が保たれていた中軍兵士にも恐怖が伝染した。規律を失い逃げ惑う左右軍の兵士が殺到して、あろうことか中軍の篝火を倒してしまった。突然の暗闇と降り注ぐ火矢が一瞬にして、中軍の将兵までも恐怖に駆られた暴徒となった。驚くべき事に、斉軍はその夜の内に将軍である田頼を含めた全員が逃走した。
朝日が昇った時に、斉軍の陣営には誰一人姿がなくなっていた。
「奇跡が起きたとしか思えん。」
呉起は魯軍幹部と斉軍の陣営跡地を歩きながら言った。数え切れぬほどの鎧や冑、矛や弓がうち棄てられていた。
戦場に横たわる両軍兵士の数千にも及ぶ死体から死臭が漂い。激しい疲れが、呉起の闘争心を萎えさせていた。
その時呉起は勝った喜びよりも李香の面影を思い浮かべていた。
『呉起将軍。斉軍を破る』の知らせはその日の内に早馬によって曲阜に届いた。
「本当に勝ったのか」
知らせを受けた元公でさえ、信じられずに身を乗り出して伝令に確認した。
「呉起将軍は見事に斉軍三軍を粉砕し、魯領には一兵の斉兵も見当たりません」
伝令の話を聞いた閣僚達から喜びの声が上がった。
「そうか。勝ったか」
元公は大きく溜息をつくと、喜びのあまり笑い出していた。
斉軍三軍との戦いまで覚悟していた曲阜の街の人々は呉起の名前を叫んで狂喜し、夜を徹して魯軍の勝利を祝った。
「魯軍の勝利はめでたいが、呉起将軍は勝ち過ぎた」
季亮子は小宰(宰相の補佐官)の陶固に言った。
「勝ち過ぎてはいけませんか」
陶固は宮廷での出世の為に季亮子と親しくしていた。呉起と陶固は宮廷内で会っても挨拶を交わすだけの関係であった。
「この度の勝利で、元公は呉起を更に重く用いよう」
「これほどの勝利であれば、当然かと思いますが」
「元公は我ら三桓子の力を削ぐ為に呉起を用いようとしているのだ」
李亮子は呉起を重用したい元公の胸の内を見抜いていた。
「季亮子様にとって、これからは呉起将軍は目障りな存在になりますな」
陶固は季亮子の言葉に心の動揺が現れないように言った。
「陶固殿。確かそなたと呉起将軍は曾参殿の学塾で一緒であったな」
「はい。僅か二年でありますが」
「何か悪い噂を聞いた事はないか」
「どうでしたか。あまり親しくありませんでしたので」
「いずれにせよ。呉起の身辺を注意して見てくれ」
季亮子はそう言うと宮廷内の喜びの声の中に消えて行った。
陶固は曾参に告げ口した自分を責めることなく、許してくれた呉起に引け目を感じていた。出世の為に季亮子に近づいてはいたが、もう二度と友を売る気にならなかった。
多くの曲阜の街の人々が城門の前で呉起の帰りを迎えた。人々は戦車に乗る呉起に群がり、しばしば行列が進まなくなってしまった。若い娘は斉軍と戦った兵士に駆け寄り、絹の布を首にかけた。
「蔡信よ。今晩は寝らせてもらえそうにないぞ」
呉起は御者を務める蔡信に言った。
「今晩だけは皆で酒と女に溺れさせてもらう」
蔡信は人々が駆け寄ってくるのを注意しながら戦車を御して言った。呉起はこの華やかな凱旋の中に、いるはずのない李香の姿を捜していた。
曲阜の人々は呉起が持ち帰った戦利品の多さに驚いた。斉軍が戦場に置いて行った荷駄の列が魯軍の兵士の隊列よりも多かった。
戦車が曲阜の街に入り、都大路から宮殿までの凱旋はあまりの華々しさに呉起の気持ちも高揚させた。
「呉起将軍。大勝利おめでとうございます」
呉起が宮殿の前で戦車を降りると、宮廷の官僚達が一斉に万歳を唱えた。
「見事な大勝利であった」
階段を登って元公に帰陣の報告と将軍の印綬の返還を行った。
「斉軍を打ち破った功績に対して、約束通り汶(ぶん)と彭(びょう)の二城を与えよう」
しかし、汶も彭も国境の街であった。呉起に与えられた食邑全てが国境の街であった。呉起以外の者であったら辞退するであろう、諍いの耐えない土地であった。
「有難き幸せに御座います」
「呉起将軍は剣の名手だと聞いた。これは私からの贈り物だ」
元公は自らの佩刀を外して、呉起に与えた。金象嵌を施された見事な鉄剣であった。
「これからも魯の為に、身命を尽くします」
呉起は片膝をついて佩刀を受け取った。
「呉起将軍、詳しい戦の話は宴会の席で聞かせてもらおう」
元公はそう言うと自ら呉起を案内するように宮殿に導いた。呉起は言うに及ばず、宮殿の祝勝会には蔡信や超耳など呉起の部隊の幹部が招かれた。蔡信達幹部は酒と女に溺れるどころか緊張の為、酒も喉を通らなかった。
「呉起よ。暫くの間、小司寇の職を免ずる」
元公が周囲を憚るように呉起の耳元で囁いた。季亮子が訝しげに二人を見ている事に呉起は気づいた。
「はい」
呉起はどう言う事なのか意味もわからずに元公に返事をした。
「この国には、私の手足となるものがいないのだ。新たに与えた食邑を豊かにして兵を練れ」
元公はそれだけ言うと呉起から離れた。