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中国歴史小説と幻想的な恋の話


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.7 刺客

 気がつくと呉起は心地よい香りに包まれていた。
「気がつかれましたか」
 目の前には幼い頃の母のような優しい笑顔があった。やがて女の顔がはっきりして李香だと気がついた。それまで看病していた蔡信は李香が入ってくると、気を利かせて席を外していた。
「あの時の盗賊の仲間に襲われたとか。私どもの為にお怪我までさせてしまい申し訳ありません」
 呉起は自分の枕元に李香が居る事に驚いて起き上がろうとした。
「無理をしてはいけません。寝たままでいて下さい」
 李香は起き上がろうとする呉起の肩を押さえて言った。呉起の鼻先に甘い香りが漂った。
「明日から私どもの踊りが始まりますので、おじい様とご挨拶に伺ったのです。そうしたら呉起様が怪我をなされて寝ていると聞いたものですから。様子を伺いに部屋の中に入れていただきました」
「そうでしたか」
 気が付いたばかりの舌の回らない口で呉起は言った。
「蔡信様とご一緒に十人以上の相手と戦ったと聞きました」
 そう言うと突然李香が泣き始めた。呉起はどうして良いのかわからず黙っているしかなかった。
「ごめんなさい。泣いたりして驚かれましたでしょう。呉起様がお怪我だけですんで良かったと思ったのです。ですからもう無茶はしないで下さいね」
 そう言って李香が微笑んだ。呉起にはまだ乙女の心の中までわからなかった。

「おお。呉起。気がついたか」
 許駿達五人は、李香が見舞いに来ていると聞いて呼ばれもしないのに顔を出した。
「俺が看病していても気がつきもしないけど、美人がくるとすぐ気がつきやがる」
 李克がわざと恨めしげに言うと、皆が笑った。
「すまんが。起こしてくれ」
 呉起は郭犀に頼んで上体を起こしてもらった。
「皆には心配をかけて申し訳なかった」
 呉起はそう言うと皆に頭を下げた。
「ここしばらく邯鄲(かんたん)の街を歩いて思ったのだが、斉の都の臨淄(りんし)へ行って太公望の残した兵法を学びたいと思う」
 呉起はまだ熱のありそうな顔して言った。
「兵法であればこの邯鄲でも教える学者はいると聞いている」
 すでに街の情報を集めている超耳が言った。
「趙の兵法学者はいずれも臨淄で学んでいるのだ。儒学であれば曲阜(きょくふ)、兵法であれば臨淄ではないかと思う」
 呉起は蔡信と何軒もの学塾を見て廻った感想を言った。
「衛の帝丘で学んだ学問もここに来て見れば田舎臭いしな。どうせ学ぶなら呉起の言うように本場だろうな」
 呉起の言葉に学問好きな許駿が言った。
「臨淄へ行くのは構わんが、李香さんの一座と離れるのは辛いな」
 それまで黙っていた華元が言うと皆が頷いた。
「私共もしばらくしたら臨淄へ行きます」
 話を聞いていた李香が言った。

 呉起が、気がついたと聞いて馬昆が部屋に入って来た。
「ご心配をかけました」
 呉起は部屋に入って来た馬昆に頭を下げた。
「臨淄で兵法を学びたいと聞こえましたが」
 馬昆が呉起の元気そうな顔を見て安心したのか笑顔で言った。
「趙は尚武の国と聞いて、武術や兵法の学塾を多く尋ねたのですが、兵法学者のほとんどは斉の臨淄で学んでいるのです」
「そうですね、やはり、呂尚(太公望の本名)や司馬穣苴と兵法家を出している本場で学ぶべきでしょう。臨淄は学問の盛んなところですから、優れた師も多くいるでしょう。私の弟の店も臨淄にありますので、あらかじめ調べさせておきましょう」

 斉の臨淄は、これより後の宣王の時代に優秀な遊説家に家を与えたり、大夫に任じたり優遇したため、各地より数千人の学者が集まった。臨淄の北、稷山の麓に集まったので稷下の学と言われた(臨淄の城門を稷門と言い、その下に集まったからとも言われる)そのため斉の国では大いに学問が栄えた。太公望の兵法書と言えば、六韜、三略が有名であるが現在のように兵法書にまとめられたのは漢の時代だと言われている。司馬穣苴の司馬法は戦国時代にまとめられ、当初は百五十五編あったとされるが、現在に伝わるのはわずか五編のみにすぎない。

「そろそろ小屋へ戻らなければなりません。いつ頃、臨淄へ行かれるのですか」
 李香が呉起の顔を見て尋ねた。
「できれば冬になる前に立ちたいと思っています」
「呉起様。お元気になられましたら、必ず私の踊りを見に来て下さいね」
頬を赤くして言うと李香は名残惜しそうに帰って行った。呉起は郭犀に支えてもらい立ち上がって李香を見送った。
「馬昆殿。鉄剣が手に入りませんか」
 部屋に戻ると呉起は尋ねた。

 当時の武器はほとんどが青銅器製だった。秦の始皇帝の墳墓から出た剣のほぼ全てが青銅器製であったが、驚くべき事にクロムメッキ処理が施されていた。青銅器とは言ってもかなり高い水準の製造技術があった。銅剣は鉄剣に比べて重く、切れ味が圧倒的に劣っていた。しかし鉄剣がなかったわけではなかった。まだ製造技術が確立されていない為、激しく打ち合うと折れてしまうものがあり、武器として使用に耐える物が少なかった。

「なぜ青銅剣ではなく。鉄剣なのですか」
 邯鄲は冶金技術の街でもあった。この頃の鉄製品は農機具が中心であった。
「私の体が小さく力がないので、剣を打ち合う時間が長くなると、己の動きと技の間にずれが生じるのです。不必要な殺傷を避けたいのです。鉄剣では肉を薄く削ぎ、相手の戦う気持ちをそぐことができますが、青銅剣では骨を断つほど激しく撃たなければなりません。あの時陳平の腕を切り落とす必要があったのか、鉄剣であれば肉を削ぐだけで十分だったはずです」
「腕を切り落とした事を悔やんでいるのですか」
「情けありませんが、私の気が小さいのです」
「わかりました。良く切れる鉄剣を探してみましょう」
 馬昆は抜群の剣の腕を持つにも拘らず、自ら気の小ささを告白した呉気に好感を抱いた。

 呉起は傷が癒えると馬昆の店を手伝うようになった。馬昆は主に塩を扱う商人だった。斉のような塩の生産国では管仲の時代に塩は専売となっており、密売商人が巨利を儲け、国政を左右するほどの大富豪となる。
「馬昆殿の店では品物が到着したその日に捌けてしまうのですね」
 呉起は数日馬昆の店の様子を見ていて尋ねた。
「以前は大量に仕入れて、その都度商品を売っていたりしたのですが。この頃は毎日様々な産地から商物が届くようにして、利益は薄くともその日に捌くようにしています。その為には得意先がどれだけ必要としているのか、生産地での値段がいくらなのか調べるのも大変なのですが、大量に運送している途中に盗賊に襲われる危険を考えれば、損失は少ないのです」
「盗賊による損失はそれほど多いのですか」
「年間の荷扱いの半分になる年もありました。荷駄が大きければ大きいほど盗賊に合うのです。盗賊達は街道筋に独自の情報網を持っていて、警護の兵を雇っても必ず襲われるのです。荷駄が襲われないように盗賊達と交渉した年もありましたが、盗賊同士の争いもあり、交渉は長くは続きませんでした」
 呉起は盗賊による荷駄の被害の大きさに驚いた。
「それで盗賊の目に触れても目立たない荷駄にして毎日運ぶようにしたのですか」
「そうです。それでも損害を皆無にする事はできませんが随分と少なくなりました」

「例えば、臨淄から邯鄲までの一本の道が盗賊に襲われることなく安全に通れるとなれば金を払っても通りますか」
「商人達は荷駄の一割を払っても通るでしょう」
「臨淄から邯鄲まで安全な道を作るのにどれほどの兵隊がいるのでしょうか」
「盗賊達は平坦な見晴らしの良い場所で荷駄を襲う事はありません。まずは谷間や曲がりくねった山道など人目が遮られるところでしょう。道は趙、衛、斉の国にまたがりますが二千人もいれば盗賊達は荷駄を襲えないでしょう」
「臨淄や邯鄲の商人達から荷駄の通行費を集めることができれば、二千人の兵を養い、盗賊を討伐することが出来ますね」
 呉起は馬昆の話しを聞きながら思いついた事を言った。

「なるほど、呉起様が帝丘の街で自警団を作られたのと同じ考えですね。たしかにそう言われると出来そうな気がします」
 馬昆はそう言うと呉起という青年の将来に自分も力添えしたくなった。
「あの時は衛の国の公子の後押しがありましたので、商人も信用してくれました。今の私には信用がありません」
「やろうと思えば出来るでしょう。邯鄲と臨淄の商人には私の顔が利くでしょう。あとは三カ国の役人への根回しです。これが一番難しいでしょう」
 馬昆はこの夢のような話しが楽しくなっていた。
「わたしが、いずれかの国の上大夫にでもなれば、交渉は出来るのでしょうね」
 呉起はそう言うと自分の夢のような考えを笑った。
「荷駄の警護をして臨淄まで行ってみようかと思うのですが」
「そうですか。いよいよ発たれるのですか。その前に李香の踊りを見に行かなければあの娘に私が怒られます」
 馬昆がそう言って大きな体を揺すって笑うと、呉起は顔を赤くした。

 翌日呉起は皆と李香の踊りを見に彼女の小屋へ出かけた。
「美しい踊りに心を奪われてしまいました」
 呉起は顔を赤くして李香の楽屋で言った。仲間達は既に何度も来ているのか、踊り子達と親しげに話していた。
「いつまでも。観に来てくれないので、私のことを忘れたのかと思っていました」
 李香は呉起を見もしないで化粧を落としながら言った。
「いや。申し訳ない。なかなか来る機会がなかったのです」
 呉起は李香の言葉にたじろいでいた。
「皆様には何度も観に来ていただいております。私は呉起様がいつ来ていただけるのかとそればかりを願っております」
 呉起が申し訳なさそうに身を縮めていると、李香はいたずらが成功した少女のように嬉しそうに笑った。
「でも、今日来ていただけたので許してあげます」
「今日あなたの踊るのを見ていて趙の公子や大夫が執心だというのが良くわかりました」
 呉起は何とか李香の機嫌を取ろうとして言った。
「呉起様がやっと私の踊りを見に着てくれたと言うことは、いよいよ臨淄へ発たれるのですね」
 李香は呉起の胸の中を見透かしたように尋ねた。
「はい。馬昆殿の店の荷駄の警備を兼ねて臨淄へ行きます」
「それでは、私達が臨淄へ行くまで暫らくの間会えないのですね」
 李香はそう言うと呉起を恨めしそうに見つめた。李香の視線を受けると呉起の心臓は激しく波打ち、息苦しくなった。
「それでは、臨淄でお待ちしています」
 呉起は居た堪れなくなって李香の前から逃げ出した。蔡信が何も言わず微笑みを浮かべたまま呉起の後に従った。

「どうも女は苦手だ」
 呉起は戸惑いを隠すように蔡信に言った。
「惚れたのか」
 蔡信が言うと、呉起は怒ったように見つめた。
「たぶん。そうみたいだ」
 呉起はしばらく蔡信を睨むと、諦めたように言った。
「おまえにも苦手な存在があるのがわかって安心したよ」
 蔡信はそう言うと呉起の背中を叩いて愉快そうに笑った。

「どうやら陳平を斬った件に関してなのでしょうか役所に出頭するようにと馬車で迎えが来ております」
 馬昆の店に戻ると店の者が呉起に伝えた。
「やはり、やくざでも人を傷つけたのだからお咎めがあるのだろか」
 呉起は僅かに不安な表情を浮かべて蔡信に言った。
「いくら邯鄲が大きな街だからと言って、咎める人間をわざわざ馬車で迎えに来ないだろう」
蔡信は役人の呼び出しに対して素直に応じようとしている呉起に言った。店先に出ると役人が丁重に呉起と蔡信を馬車に乗せた。馬車はゆっくりと二人を乗せて役所ではなく大きな屋敷に入った。馬車を下りるとその家の家人が二人を見事な調度品のある部屋へ案内した。
「どうやらお咎めではないらしいな」
 蔡信は安心したように部屋を見回すと言った。

「呉起殿、どうもお呼び立てして申し訳ない。私は邯鄲の大夫の荀稷(じゅんしょく)です。呉起殿の素晴らしい剣名を聞きまして、一度お会いしたいと思い、ご足労願いました」
「呉起です。こちらに居りますのがわが友の蔡信と申します。突然剣名と言われても、やくざとの争いで怪我をしたほどのものです」
「いやいや。ゆっくりと食べながらお話しを伺わせていただきたい」
 荀稷は家人に合図をすると美しい女達が見事な料理を運んで来た。
「呉起殿の生国はどちらですか」
「衛の国です」
 呉起は荀稷の問いに短く答えながら、どうしてここへ呼ばれたか考えていた。
「剣もそちらで学ばれたのですか」
 荀稷はにこやかに二人に箸を動かすように勧めた。
「はい」
「邯鄲にはどのような用件で来られたのですか」
「兵法を学ぼうと思い邯鄲にまいりました」
「なるほど、何の為に兵法を学ぼうと考えるのですか」
「衛の国は小さな国で常に大国の侵略を受けて来ました。もし百選連勝の将軍が衛にいたならば、戦えば必ず負けるとわかっているのに戦を挑もうとする国があるでしょうか。百選連勝の将軍となることが、衛の国に戦のない時代を作ることができるのです。その為に私は兵法を学びたいのです」

「なるほど、戦のない国を作るために兵法を学びたいのですか。あなたには大望がある。我々にもあなたの大望のお手伝いさせて貰えまいか。その代わりと言ってはなんだが、あなたの剣をこの趙の国に役に立ててもらえないでしょうか」
「どう言う意味でしょうか」
 呉起はにこやかに話している荀稷の言葉に箸を止めた。
「あなたの剣である人物を斬ってもらいたいのです。当然成功の暁には私から衛の懐公にあなたを大夫に推薦いたします。懐公とは太子の時から実懇の間ですから」
 蔡信は荀稷に気付かれないように目を左右に動かして呉起に合図した。
「私の剣を見込んで思いがけない言葉をいただき光栄です。しかし私は己の剣を殺人剣にはしないと誓ったのです」
 呉起は馬昆が語った、献侯と桓子の争いを思い出した。もう二度と公室の争いに巻き込まれたくなかった。
「そうですか。やはりあなたの剣は噂通り素晴らしいようだ。今日はお会いできてよかった」
 荀稷は僅かに眉を上げると、それ以上人を斬る話には触れず、邯鄲の街の話に終始して食事を終えた。呉起と蔡信は招かれたと時と同じように馬昆の店まで馬車で送られた。

「これからすぐに邯鄲の街を発ちます」
 呉起は心配そうに二人を待っていた馬昆に言った。
「いったいどうされたのですか」
 馬昆が呉起の言葉の意味がわからず聞いた。
「大夫の荀稷殿に刺客の依頼を受けたのですが、断りました。大夫は秘密を話した相手をこのまま放置しておくとは思えません。やがて役人が来て私達二人を捕らえようとするでしょう。だから今すぐ邯鄲を出ます」
「わかりました。このまま臨淄に向って下さい。急げば今朝出た荷駄に追いつくでしょう。そうすれば臨淄まで何の心配も無く行けます。そうそう忘れるところでした」
 馬昆はそう言うと奥の部屋に何かを取りに行った。
「ご依頼の鉄剣が手に入りました」
 呉起は馬昆から剣を受け取ると鞘から抜いた。青銅製の剣とは違い、刃が鈍い光を放って切れ味の鋭さを物語っていた。剣を持つ呉起に不思議な自信を感じさせた。
「ちょうど良い重さです。心強い道ずれが出来ました」
 呉起は剣を鞘に戻すと言った。
「さあ。これを持って、急いで下さい」
 馬昆は金を蔡信の懐に押し込んで、店の者を城門まで護衛につけて送り出した。呉起と蔡信は馬昆に碌な挨拶もせずに走るように邯鄲の街を後にした。呉起と蔡信は趙の国境の河水まで夜を徹して走った。趙の兵士に追いつかれる事もなく、河水の渡しで馬昆の店の荷駄に追い付く事が出来た。

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by shou20031 | 2005-01-29 01:02 | 中国歴史小説

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