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中国歴史小説と幻想的な恋の話


淫ら英泉と言われた。渓斎英泉

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”淫ら英泉”と言われた渓斎英泉(1790~1848)

姓は池田、名は義信。 号、国春桜、北亭、渓斎、一筆庵可候、楓川市隠等の号をもちいた。
江戸の星ヶ岡で下級武士の子として生まれ、一時仕官したのち浪人し、浮世絵師菊川英山宅に寄宿して画法をまなんだといわれるが、英山とは4つしか年が離れていないので、師匠というよりは同じ師に弟子入りする兄弟子という感じであろうかと思われる。 一時北斎の下にもいたらしい。26歳頃から英泉の号を用いて挿絵を描き始める。始めは華麗な美人画を描いていた。やがて英泉の持ち味となる退廃的で妖艶な美人画を描く。
淫ら英泉と言われた。渓斎英泉_c0039644_21211373.jpg淫ら英泉と言われた。渓斎英泉_c0039644_21214089.jpg淫ら英泉と言われた。渓斎英泉_c0039644_21241048.jpg


英泉の美人画は妖艶な退廃美である。春絵の代表作「枕文庫」は文章も自ら書いた。江戸時代の性の医学書といっても良い感じの本で英泉の性格が垣間見れる。英泉の本領は春画にあると言っても過言ではない。興味のある方は大きな本屋の美術コーナーに行けば必ず出会うことができる。文政末期に藍摺絵を始め、独自の妖艶・退廃的な美人画を創造した。また、広重との合作で「木曽街道六十九次」70枚のうち、23枚を描いている。
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名目上は広重との合作としているが、途中で英泉が遊びに行って戻ってこず、困った版元がその残りを広重に描かせたらしい。英泉は作品を描いている途中に深川に遊びに行ってしまうような遊び好きだったらしい。だからこそ美人画や素晴らしい春画が描けたのでしょう。
晩年になると、幕府の取り締まりを恐れたのか、自分の才能に限界を感じたのか、「一筆庵可候」の名で文章を手がける戯作者となった。
by shou20031 | 2005-05-17 23:25 | 芸術

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