中国歴史小説と幻想的な恋の話


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子 Vol.9 父の死

 張疋(ちょうひき)の屋敷はまた男達だけになり、呉起と許駿(きょしゅん)は兵法書を読み続ける単調な生活を繰り返して夏が過ぎて、また新しい春が訪れた頃、蔡信(さいしん)が子供を一人連れて来た。
「俺の懐を狙いやがったのだ」
「すりは捕まれば、子供だろうが右腕を切り落とされるのだろう。それでそいつをどうするのだ」
 書を読むのに疲れて出てきた許駿が蔡信に言った。
「どうやら、こいつらはスリの親分に養われているらしい。その日の上がりが悪いと飯を食わしてもらえなかったり、殴られたりするらしい。」
「おいおい蔡信。勘弁してくれよ。何か嫌な臭いがして来たのだけどな。まさか、スリの親分と喧嘩でも始めようって気じゃないだろうな」
 許駿は蔡信が胸の内で考えていることを想像した。

「名前は何という。その親分のところには、スリの技を仕込まれている子供は何人いるのだ」
 二人の話を聞いて書庫から出て来た呉起が少年に尋ねた。
「俺の名前は快(かい)だ。十人いる」
 快が呉起の顔を挑むように見て言った。
「子供達にスリをさせているのなら、逃げられないように大人の見張りがいるだろう」
 呉起が重ねて尋ねた。
「何かあると俺達を殴ってくる奴が五人いる」
 快が不安そうに答えた。

「おいおい。お二人さん。もうすっかりスリの親分のところへ殴り込みに行くつもりのようだけど。その後に子供達をここで面倒みるつもりじゃないだろな」
 許駿がその気になっている呉起と蔡信に尋ねた。
「蔡信。快にスリの親分の所へに案内してもらおうか」
 呉起はそう言うと立て掛けてあった棒を一本持って歩き出した。
「どうして、おまえら二人はこう言う事では気が合うのかね」
 許駿はそう言うと大きくため息をつきながらも、呉起と蔡信の後に従った。スリの親分の家は臨淄の町外れにあった。張疋の屋敷にくらべると随分立派な家で、どこかの資産家の屋敷のようであった。
「大丈夫だ。快の仲間を助けに行くんだ」
 蔡信はそう言うと怯えている快の手を握って安心させた。

「誰だ。でめえは」
 家の中から背の高い目つきの悪い男が出て来ていった。
「この家では可哀想な子供を養ってあげていると聞いて、俺たちも少しお手伝いさせてもらおうかと思いましてね」
 呉起は目つきの悪い男に言った。
「この餓鬼どこへ逃げてやがったんだ」
 目つきの悪い男は蔡信の手を握っている快を見て言った。
「呉起よ。子供達を働かせて上前を撥ねているような奴らだ。つまらん遠慮はいらない」
 蔡信はそう言うと空いている右手で男を殴り倒して、家の中に踏み込んで行った。

「誰だい。おまえさん」
 酒を飲みながら女を脇に抱えた親分らしい男が蔡信を見て言った。だらしなく酒を飲んでいた若い男達が蔡信の姿を見ると剣を持って立ち上がった。
「子供達にスリをさせて、上前を撥ねてる野郎がいると聞いてね。どんなふてえ顔をしているのか見に来たのだ」
「殺っちまいな」
 親分が言うより早く、立ち上がった男が小さな剣を腰に当て体ごと蔡信にぶつかって来た。蔡信は剣を抜く間がないので、肩先から男にぶつかり、跳ね飛ばした。蔡信の腹に冷たい剣先が触れた。呉起は持っている棒を突き出して体ごとぶつかって来る男の顔を突いた。男は悲鳴をあげて転がった。呉起は突いた棒を手元に引いて回転させ、もう一人の男の頭を払うように叩いた。男は鈍い音を立てて床の上に倒れた。蔡信は無表情に剣を抜くと男を壁際に追い込んだ。

「子供達はどこだ」
 蔡信が聞くと若い男は怯えたように親分の顔を見た。呉起は棒で親分の腹を激しく突いた。
「どこのやくざに頼まれたんだ」
 親分は体をくの時に曲げて苦しそうに言った。
「どこでも構わないだろう。明日からはスリがしたかったら自分達でするんだな。もっともあんたは二度とスリは出来なくなるけど」
 呉起は親分の右手を足で踏みつけて手を床の上に押さえつけ、垂直に棒を突き下ろした。
「右手を切り捨てられるよりはいいだろう」
 手の骨が砕かれる鈍い音がした。あまりの激痛に泣き叫んでいる親分に吐き棄てるように言った。

「奥の部屋にいるよ」
 許駿の後ろに隠れていた快が言った。
「快。もうスリを働かなくて良くなったと言って、皆を連れ出して来い」
 呉起が言うと、快が嬉しそうに奥の部屋に走って行った。やがて小さな女の子から快より年上の男の子まで不安そうな顔をして出て来た。
「いいか今度、この街でおまえ達を見掛けたら叩き切る」
 蔡信は震えている若い男に言うと、蔡信の顔を不思議そうに見上げている小さな女の子を抱き上げた。
「子供達を取り返そうなんて考えるな、大事な命を失う事になるぞ」
 呉起は蔡信の背中から剣を抜いて震えている男の髷を切った。髪がふわりと宙に舞って、男の顔を覆った。一瞬の後に剣は蔡信の背中に戻っていた。男は恐怖で腰を抜かしていた。

「どこへ行くの」
 女の子が蔡信に尋ねた。
「ご飯を食べる為に悪い事をしなくて良いところだよ」
 蔡信はそう言うと子供達をスリの親分の家から連れ出した。
「蔡信は女の子に人気があるようだな」
 呉起は小さな子供達の手を引いて言った。
「こいつらの面倒は誰が見るのだ」
 許駿はそう言いながら快や大きな男の子の顔を見ていった。

 その夜から男ばかりで静かだった張疋の屋敷は子供達の声で賑やかになった。呉起は張疋に子供達を屋敷に住まわせて欲しいと頼むと、張疋は拍子抜けがするほどあっさりと許してくれた。
 呉起は子供達に手習いとして優しい文字を教え始めた。すると、呉起にさえ何も教えようとしなかった、張疋が楽しそうに子供達に教え始めた。
「この屋敷はまるで子供達の塾になったみたいだな」
 許駿はそう言いながらも楽しそうに子供達の手習いをした。
「この子達をこれからどうするつもりなんだ」
 許駿は子供達が笑顔で騒いでいる姿を見ながら言った。

「やがて文字を読めるようになって、算盤が出来るようになれば大店でも働けるようになるだろう。蔡信が剣術を仕込めば、立派な兵士にもなれるさ」
 呉起が快の文字を直しながら言った。
「俺は偉い役人になるんだ」
 快が二人の話を聞いて言った。
「ほう。どうしてだ」
「うん。役人になって俺達みたいな親なし子でも飯を食わしてくれる家を作るんだ」
「そうか。じゃあ。頑張って文字をおぼえなきゃならないな」
「うん。だからもっと教えてくれ。いつまでも兄ちゃん達の世話になってられないから」
 快は目を輝かせて言った。
「頼もしい事を言うじゃないか」
 快の言葉に許駿と呉起は顔を見合わせて笑った。

 いつもは馬才の店で商売の勉強をしている郭犀が額に汗を流して走って来た。
「よいところに来てくれた。子供達に算盤を教えてもらおうかと思っていたところなんだ」
 呉起の言葉に応えず郭犀の表情が暗かった。
「呉勝殿が亡くなられたそうだ」
 郭犀が呉起に伝えるのが辛そうに言った。呉起は郭犀の言葉を聞くと頭の中が真っ白になってしまい言葉を失った。
「部屋に戻る」
 呉起は呟くように言うと足を引き摺るように部屋に戻って行った。許駿も郭犀も呉起にかける言葉を見つけられなかった。子供達の笑い声が無邪気に屋敷に響いた。その夜、呉起の部屋から一晩中嗚咽が漏れ聞こえた。

「私は帝丘に戻る」
 翌朝、呉起は帝丘から一緒に来た皆を前に言った。
「許駿。これは、帝丘を出る時に父が持たせてくれた金だか、張疋殿と相談して、この子達の為に使ってくれ。超耳、華元、李克は許駿を助けてやってくれないだろうか」
 許駿の前に千斤の金を置いた。
「蔡信はどうするのだ」
 許駿が昨日から黙り込んでいた蔡信に尋ねた。
「俺は呉起について行く」
 蔡信が目を閉じたまま答えた。

「いつ出発するのだ」
 超耳が尋ねた
「このまま発つ事にする。いつ戻れるかわからないが、後の事はよろしく頼む」
 呉起はそう言うと張疋の部屋を訪れ、これまでの礼を述べ帝丘の街に帰る事を告げた。
「後の事は心配するな」
 張疋はそれだけ言うと呉起を臨淄の城門まで送った。呉起の胸には張疋に対する言葉に出来ぬほどの感謝の気持ちが溢れていた。呉起は万感の思いを込めて、張疋の手を握って別れを告げた。

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# by shou20031 | 2005-01-30 15:47 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.8 斉の都 臨淄(りんし)

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 翌日には許駿(きょしゅん)ら五名は汗と埃だらけになって呉起たちに追いついた。
「やっと追い付いた。これで野鼠や蛇を食わなくとも大丈夫だな」
 許駿は埃で汚れた顔で呉起に言った。
「やはり旅はいいな。皆でこうやって大空の下を歩いていると気持ちが安らぐ」
「おまえの場合は仕事をしないでいられるのが楽だからだろう」
 追いついて一緒になれたせいか許駿と超耳(しょうじ)が暢気にやりあっていた。
「その代わり、盗賊に出会う確立は高いぞ。顔を見合わせたら本物の盗賊の方が驚くかもしれんがな」
 蔡信が汗と埃で汚れた皆の顔を見て言った。
「いや本当に盗賊に会いたいのだ。出来れば盗賊の首領と話が出来ないかとおもっているのだ」
「おい。おい。盗賊の首領など陳完だけで十分だ。あんな奴に関わったから李香さんに挨拶も出来ずに邯鄲(かんたん)を飛び出して来たんじゃないか」
 呉起の言葉に、郭犀(かくさい)が少しむくれたように言った。
「そう言えば馬昆どのが、呉起は邯鄲から臨淄まで盗賊の出ない道をつくるかもしれないと言って驚いていたぞ」
 蔡信が相変わらず呉起の後を歩いて言った。
「そこまでは考えていないが、土地を追われ止むを得ずしているのだろうが盗賊の商売とは 勘定が合うのだろうかと思っているのだ」
「俺達の昔と変わらないさ。生きていく為にやむを得ず盗賊をしているのだ」
 蔡信が自分達の昔を思い出したくないように吐き捨てるように言った。
「おい。久し振りに孔丘の言葉を教えてくれ」
 学問好きな許駿が呉起に頼んだ。荷駄の後ろで大きな声で孔子の言葉を復唱して歩く集団が街道を行く人々の目を引いた。

 邯鄲から臨淄(りんし)までは河水(黄河)や済水、さらにはその支流の川を何度も渡らなければならなかった。天気に恵まれた一行は晩秋の青空の下、盗賊に襲われる事もなく、邯鄲の街を出て十日後に当時中華最大の商業都市である臨淄に到着した。
 斉の国は、太公望が周の文王と共に殷を滅ぼした功績により営丘の地に封ぜられたのを祖とし、呉起が訪れた頃は宣公の時代である。斉では田常の時から田氏が代々宰相の地位を私し、この時、田荘子が斉の宰相となっていた。

「馬昆の弟の馬才と申します。遠い所よくいらっしゃいました」
 呉起たちは店の者に案内された部屋で寛いでいると、長身ですらりとした馬才が挨拶にやって来た。
「我々こそ突然やって来まして、お世話になります。呉起と申します」
 呉起が挨拶すると悪党面が揃って馬才に頭を下げた。
「兄から皆様のお手伝いをするようにと伝言を承っております」
「馬才殿、俺に少し算盤を教えてもらえないだろうか」
 郭犀が改まって馬才に頭を下げて頼んだ。
「おいおい。おまえは算盤を弾くより、懐から財布を抜くほうが早いだろう」
 李克が珍しく真剣な顔で頼んでいる郭犀を冷やかした。

 因みに、中国最古の数学書は紀元前1世紀許商の「許商算術」と杜忠の「杜忠算術」で「算木と算盤」と言う計算器具で計算していたと書かれている。最古の算盤の文献は漢の除岳(2世紀末)の「数術記遺」の中に五玉が一つ、一玉が四つの日本の算盤に近い計算機の記述が残っている。算盤はそれより前から存在したと思われるが形は除岳の記述したものとあまり変わらないのではないかと言われている。

「馬昆殿の店で働いていて、算盤を少しいじらせてもらったら面白くなって、真面目に学びたくなったのだ」
「お安い御用です。皆様は見かけによらず旅の間でも学問をされているという方々ですから、こちらも教え甲斐があります」
 馬才はそう言うと嬉しそうに豪快に笑った。
「そうそう、以前から兄から探すように言われておりました兵法学者の方もすでに話しを通してありますので、旅のお疲れが取れましたら、店の者にご案内させます」

 呉起は旅の汚れを井戸で流すと早速、兵法を教える学塾へ案内してもらった。
「そなたが衛の国から兵法を学びに来た若者か」
 斉の国と言えば兵法の本場である。多くの弟子が学ぶ立派な屋敷に連れて行かれると思ったのだが、馬才の店の者が呉起を案内した屋敷は今にも屋根が崩れそうな家であった。白髪で薄汚れた服を着た、しなびたような顔をした老人が言った。
「はい」
「そなたは、兵法など全く知らない百戦連勝の将軍と、一度も戦に行った事がないが、古から伝わる兵法書は全て諳んじている学者と、どちらに学びたい」
 老人の白髪の頭はしばらく髪を梳いていないようだった。朽ちた床板から床下の土が見えていた。
「百戦連勝の将軍から学びたいと思います」
「しかし百選連勝の将軍は教えるべき言葉を知らない。そなたはどうする」
「それまで戦った全ての戦いの話しを聞く事より始めます」
「将軍は年老いて何度も同じ話しを繰り返すがどうする」
「繰り返し話されるのはそれだけ印象が深いからでしょう。そこから戦いの山場を学びたいと思います」
「そこに、古の昔から伝わる兵法書がある。好きなだけ繰り返し読むが良い。私は一度も戦に出たことのない学者だ」

 この頃はまだ紙が発明されていない為、書とは細く裂いた竹簡又は木簡に文字を書いたものを紐で結わいたものを書と言い、紐で結わえてひと巻きにしたものを冊(さく)と言う
「入門をお許しいただけるのですか」
「書を読むのは自由じゃ。但し我が家の家宝であるので持ち出してはならない。書き写されるのは自由じゃ」
「これは入門料と束脩です。お納め下さい」
「金は要らぬ。書を読みに来られる日に私の分の食事を用意してくれるとありがたい」
 
 老人はそう言うと横になって寝てしまった。呉起はしばらく老人の寝ている姿を見ていた。
学ぶと言う事はどう言うことなのか考えていた。机を並べ師匠の話を金科玉条のように覚え込むのが学問なのか、書を読み己の力で考えることが学問なのか、老人は呉起に教えようとしているのだと気がついた。教えを受けることにこだわると真に学ぶ心を見失ってしまう事を教えられたような気がした。

「驚かれたでしょう。名は張疋(ちょうひき)と言い、斉の公孫で大夫だったのですが、とにかく変わり者で有名なのです。しかしあの崩れそうな屋敷には斉の国に残る全ての兵法書があると言われておりますが、あまりに酷いのでどうしようか考えてしまいました。」
 馬才は呉起が張疋の屋敷から戻ると待っていたように話かけた。
「いいえ。私にはあそこでなければ兵法は学ぶことが出来ない気がします。良いところを紹介していただきました」
 呉起が馬才に感謝して頭を下げた。

 翌日朝早くから呉起は仲間達と共に張疋の屋敷にやって来た。
「聞きしに優る酷い家だな。直すより壊しちまった方が早いんじゃねえか」
 蔡信はほとんど崩れている土塀から家を見て言った。
「屋根に穴が開いてるじゃねえか」
「泥棒だって寄りつかねえな」
 李克と華元はあまりの酷さに呆然として言った。
「一体どこから直したらいいのだ」
 許駿がやる気のない声で呉起に尋ねた。

「朝っぱらから、珍しく人が尋ねて来たと思えば、よくもそんなに人の家の悪口が言えるものじゃ」
 傾いた家の中からしなびた顔の脹疋が出て来て言った。
「お早う御座います。昨日入門を許していただいた呉起です」
「おう朝早くから良く来た。朝餉の用意はしてきたのか」
 張疋は呉起の顔を見つけると嬉しそうに言った。
「はい。用意してまいりました。それと少し書庫が傷んでおりますので、雨がかからないよう修繕してよろしいでしょうか」
「ああ、書さえ傷付かなければ、思うようにするが良い。それより折角用意してくれた朝餉だから食べるとしよう。正直言うと二日ほど食べておらんので助かった」
 呉起は張疋の卓に用意して来た肉万頭と汁を置いた。
「遠慮なくでいただく」
 張疋はそう言うと美味そうに口に運んだ。

 それから毎日張疋の家の修理を皆に手伝ってもらった。床を張り、屋根を直し、土を捏ねて壁を塗った。素人の手ながら二十日後には、母屋も使われる事もなかった使用人部屋も、冬の寒さをしのげるようになっていた。
「お陰で屋敷が随分と綺麗になったな」
 張疋は毎日食事が取れるようになったせいで随分と血色が良くなっていた。
「これでやっと兵法を学ぶことが出来ます」
「礼と言うわけではないが使用人部屋を皆で使ってくれ。そうしてもらえば屋敷を綺麗に保てる」
 張疋はそう言うと昼寝をしに自分の寝室へ戻って行った。

 呉起はその日から張疋の屋敷の使用人部屋に寝泊りするようになった。呉起が馬才の店から移ると、算盤を学んでいる郭犀を除いた仲間が使用人部屋に移って来た。
 張疋の屋敷では朝日が昇ると蔡信の剣術の稽古が始まり、呉起による文字の勉強と儒学の講義を終えると朝食を張疋と一緒に皆で取った。その後一緒に学びたいと言い出した許駿と呉起は兵法書を書庫で読み、他の者は馬才の店で働いた。

 男ばかりの正月を迎えた張疋の屋敷に華やかな訪問者を迎えた。
「おめでとうございます」
 李香と一座の踊り子達の明るい声が男ばかりの屋敷に響いた。
「驚いたな。これも何かの縁なのだろうか」
 李淵が張疋の顔を見て言った。
「まさかおまえに会えるとはわしだって思っていなかった」
 張疋が李淵の肩を懐かしそうに抱いた。

「お知り合いだったのですか」
 呉起が懐かしそうに肩を抱き合っている二人に尋ねた。
「三十五年以上も前の黴の生えた話さ。この李淵はそれこそ百戦連勝の武将だった。魯との国境の砦を守る守備隊長だった。ところがたった一度、敵の陽動作戦に引っかかり砦を空けて深追いをしてしまった。追撃を止めて砦に戻ってみると、砦は赤ん坊一人を残して皆殺しになっていた」
「私が責任を取って自害しようとするのを、少宰(宰相補佐)であった張疋に自害は亡くなった者達の復讐を終えてからだと止められた。私は修羅のようになって復讐をしたが、それは新たなる憎しみをもたらしたに過ぎなかった。累々と並ぶ死体を見て己のなしたおぞましさに、もはや戦をする心を失った私は全てを捨て、残った赤ん坊を抱いて旅に出たのだ」

「あれから三十五年か」
 老人はお互いの変わり果てた姿を笑顔で見つめ合った。
「呉起よ。兵法を学びたいのであれば、百戦連勝の李淵に学べ。私は三十五年振りに会う友の為に酒を用意してくる」
 張疋はそう言うと嬉しそうに家の中に入った。

「張疋こそ、戦の天才なのだ」
 李淵が嬉しそうに酒を取りに行く張疋の後ろ姿を見て言った。
「張疋は公孫である故に戦に出ることが許されなかったのだ。張疋はたった一度だが若い時、戦に出たことがある。それも輜重隊の隊長として前線から遠く離れていたのだが、前線の兵士の戦意を挫く為に、敵は遠く迂回して警備の薄い輜重隊を襲ったのだ。襲う敵はおよそ千名、迎え撃つ輜重隊も千名だが老人ばかり、戦える者は僅か百名。張疋は敵の姿を見つけると、輜重隊を谷間の道に逃げ込ませ、百名の兵士を谷間の入り口に伏せた。敵が輜重隊を追って谷間に深く入った時、輜重隊の後ろの荷駄に火を放ち道を塞いだ。その後、谷間の入り口に伏せた兵隊に敵の退路から攻撃させ、張疋はたった百名で敵を殲滅してしまったのだ。ところがこの話を聞いた宰相の田氏が公孫である張疋の才能を恐れて、大夫として身近に控えさせ、張疋が何度願っても、二度と戦場に出さなかったのだ」

「なぜ田氏は張疋殿の才能を恐れたのですか」
 斉の国の内情を良く知らない呉起は尋ねた。
「斉の君主はすでに名のみ存在となって、実権は代々田氏が握っておるのだ。公孫とは言え公族から田氏を凌ぐ将軍を出す必要はないであろう。少宰となって己が飼い殺しの運命である事に気付くと張疋は官を辞して学者になったのだ」
「張疋殿にとって戦場は果たせぬ夢だったのですね」
「その戦場に飽きた者もおる」
 呉起はその時、遥か昔戦場を駆け回った男達の悲しみを垣間見た気がした。

「いつまでもそんな所に立っておる。美女もいるし酒もある。お互いの髪がさらに白くなろうが新年を祝おうではないか」
「さあ。呉起様もこちらにお座り下さい」
 李香が用意して来たのであろう料理の皿を卓の上に置いた。李香や踊り子を迎えて、いつもは寡黙な男達の食卓が華やかな笑い声に包まれた。
 春になり一座が魯の曲阜に移るまで李淵は張疋の屋敷に留まり、それまでに戦った戦の話を呉起に話した。張疋は李淵の話しを目を閉じて黙って聞いていた。それは李淵の話しに己の果たせなかった夢を重ねているようだった。

「戦いに先立って、しなければならない事はなんでしょう」
 呉起は李淵の話が一段落すると尋ねた。
「私は守備隊の隊長でしたから、その立場でお答えしよう。まず兵士の信頼を得ておくことでしょう。兵士には十分な休養を与え、普段から教練を怠らないことです。敵が遠くにいるなら斥候を差し向け情報の収集につとめ、近くに迫ったら自分の目で確認する。敵を前にしても静かに構え、自軍が混乱しても余裕をもって対処することです」

「戦いに際して注意することは何でしょうか」
「戦いに際しては、勢いを失って静かになった敵を撃ち、勢いを内に秘めてなりを潜めている敵は避けることでしょう。味方が小部隊であれば小回りが利き、大部隊であれば正面からの決戦に適している。大部隊なら進軍と停止だけにとどめて無用な混乱を避け、小部隊なら自由に進退して小回りの利点を生かすことです」

「大部隊に遭遇した時はどうすべきですか」
「わざと旗を捨てて、追撃してきた敵に伏兵をおいて迎え撃つなど策を講じることはできるでしょう。但し、戦いは勝機とみれば戦い、そうでなかったら無理をしないで退くことが負けない秘訣です。呂尚(太公望)は強力な敵に遭遇したときは、守るよりも撃って出た場合のほうが勝機を見出すとありますが、それも策がある場合に限る」

「強い部隊を作るにはどうすれば良いでしょう」
「日々教練を行う事は言うまでもないが、隊内の身分制度を明確にすること。賞罰の基準を明確にすること。命令を繰り返し徹底させること。部下の意見に耳を傾けること。有能な人材を登用すること。軍法はなるべく簡単にし、刑罰も最小限にとどめる。ただし小罪といえども罪をおかしたなら誅殺する。そうすれば小罪はむろんのこと大罪を犯す者もいなくなります」

 呉起は李淵に問う事に夢中になり月日が過ぎて行くことさえ忘れていた。呉起にも李香と話しが出来ることは嬉しかったが、李淵の話は李香への想いをも一時的ではあるが忘れさせていた。

「相変わらず、呉起様はお爺様との話に夢中になって、私の踊りを見に来てくださらないのね」
 李香は毎日のように呉起に会いに来た。李香の胸の中にはいつも呉起の存在があった。
「李香。邪魔をするのでない。呉起どのは学問をされているのだ」
「わかっています。見に来て下さらないから、こうやって私が会いに来ているのです」
李香はそう言うと呉起の服を洗濯する為に持って出て行った。呉起の体臭が李香の胸を締めつけた。

「我儘な娘で申し訳ない。あの娘は幼くして両親を失い甘える術を知らないのだ。心苦しいが旅立つ日まで許して貰えまいか」
 李淵はそう言うと目尻を赤くして李香の後姿を見送った。呉起は李香への想いをどう伝えて良いのかまだわからなかった。妻にするならば李香をと心に決めていた。
 
 梅が咲き桃の花が咲く頃になると、李淵の一座は李香の想いを断ち切るように魯に向って旅立って行った。
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# by shou20031 | 2005-01-29 22:52 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.7 刺客

 気がつくと呉起は心地よい香りに包まれていた。
「気がつかれましたか」
 目の前には幼い頃の母のような優しい笑顔があった。やがて女の顔がはっきりして李香だと気がついた。それまで看病していた蔡信は李香が入ってくると、気を利かせて席を外していた。
「あの時の盗賊の仲間に襲われたとか。私どもの為にお怪我までさせてしまい申し訳ありません」
 呉起は自分の枕元に李香が居る事に驚いて起き上がろうとした。
「無理をしてはいけません。寝たままでいて下さい」
 李香は起き上がろうとする呉起の肩を押さえて言った。呉起の鼻先に甘い香りが漂った。
「明日から私どもの踊りが始まりますので、おじい様とご挨拶に伺ったのです。そうしたら呉起様が怪我をなされて寝ていると聞いたものですから。様子を伺いに部屋の中に入れていただきました」
「そうでしたか」
 気が付いたばかりの舌の回らない口で呉起は言った。
「蔡信様とご一緒に十人以上の相手と戦ったと聞きました」
 そう言うと突然李香が泣き始めた。呉起はどうして良いのかわからず黙っているしかなかった。
「ごめんなさい。泣いたりして驚かれましたでしょう。呉起様がお怪我だけですんで良かったと思ったのです。ですからもう無茶はしないで下さいね」
 そう言って李香が微笑んだ。呉起にはまだ乙女の心の中までわからなかった。

「おお。呉起。気がついたか」
 許駿達五人は、李香が見舞いに来ていると聞いて呼ばれもしないのに顔を出した。
「俺が看病していても気がつきもしないけど、美人がくるとすぐ気がつきやがる」
 李克がわざと恨めしげに言うと、皆が笑った。
「すまんが。起こしてくれ」
 呉起は郭犀に頼んで上体を起こしてもらった。
「皆には心配をかけて申し訳なかった」
 呉起はそう言うと皆に頭を下げた。
「ここしばらく邯鄲(かんたん)の街を歩いて思ったのだが、斉の都の臨淄(りんし)へ行って太公望の残した兵法を学びたいと思う」
 呉起はまだ熱のありそうな顔して言った。
「兵法であればこの邯鄲でも教える学者はいると聞いている」
 すでに街の情報を集めている超耳が言った。
「趙の兵法学者はいずれも臨淄で学んでいるのだ。儒学であれば曲阜(きょくふ)、兵法であれば臨淄ではないかと思う」
 呉起は蔡信と何軒もの学塾を見て廻った感想を言った。
「衛の帝丘で学んだ学問もここに来て見れば田舎臭いしな。どうせ学ぶなら呉起の言うように本場だろうな」
 呉起の言葉に学問好きな許駿が言った。
「臨淄へ行くのは構わんが、李香さんの一座と離れるのは辛いな」
 それまで黙っていた華元が言うと皆が頷いた。
「私共もしばらくしたら臨淄へ行きます」
 話を聞いていた李香が言った。

 呉起が、気がついたと聞いて馬昆が部屋に入って来た。
「ご心配をかけました」
 呉起は部屋に入って来た馬昆に頭を下げた。
「臨淄で兵法を学びたいと聞こえましたが」
 馬昆が呉起の元気そうな顔を見て安心したのか笑顔で言った。
「趙は尚武の国と聞いて、武術や兵法の学塾を多く尋ねたのですが、兵法学者のほとんどは斉の臨淄で学んでいるのです」
「そうですね、やはり、呂尚(太公望の本名)や司馬穣苴と兵法家を出している本場で学ぶべきでしょう。臨淄は学問の盛んなところですから、優れた師も多くいるでしょう。私の弟の店も臨淄にありますので、あらかじめ調べさせておきましょう」

 斉の臨淄は、これより後の宣王の時代に優秀な遊説家に家を与えたり、大夫に任じたり優遇したため、各地より数千人の学者が集まった。臨淄の北、稷山の麓に集まったので稷下の学と言われた(臨淄の城門を稷門と言い、その下に集まったからとも言われる)そのため斉の国では大いに学問が栄えた。太公望の兵法書と言えば、六韜、三略が有名であるが現在のように兵法書にまとめられたのは漢の時代だと言われている。司馬穣苴の司馬法は戦国時代にまとめられ、当初は百五十五編あったとされるが、現在に伝わるのはわずか五編のみにすぎない。

「そろそろ小屋へ戻らなければなりません。いつ頃、臨淄へ行かれるのですか」
 李香が呉起の顔を見て尋ねた。
「できれば冬になる前に立ちたいと思っています」
「呉起様。お元気になられましたら、必ず私の踊りを見に来て下さいね」
頬を赤くして言うと李香は名残惜しそうに帰って行った。呉起は郭犀に支えてもらい立ち上がって李香を見送った。
「馬昆殿。鉄剣が手に入りませんか」
 部屋に戻ると呉起は尋ねた。

 当時の武器はほとんどが青銅器製だった。秦の始皇帝の墳墓から出た剣のほぼ全てが青銅器製であったが、驚くべき事にクロムメッキ処理が施されていた。青銅器とは言ってもかなり高い水準の製造技術があった。銅剣は鉄剣に比べて重く、切れ味が圧倒的に劣っていた。しかし鉄剣がなかったわけではなかった。まだ製造技術が確立されていない為、激しく打ち合うと折れてしまうものがあり、武器として使用に耐える物が少なかった。

「なぜ青銅剣ではなく。鉄剣なのですか」
 邯鄲は冶金技術の街でもあった。この頃の鉄製品は農機具が中心であった。
「私の体が小さく力がないので、剣を打ち合う時間が長くなると、己の動きと技の間にずれが生じるのです。不必要な殺傷を避けたいのです。鉄剣では肉を薄く削ぎ、相手の戦う気持ちをそぐことができますが、青銅剣では骨を断つほど激しく撃たなければなりません。あの時陳平の腕を切り落とす必要があったのか、鉄剣であれば肉を削ぐだけで十分だったはずです」
「腕を切り落とした事を悔やんでいるのですか」
「情けありませんが、私の気が小さいのです」
「わかりました。良く切れる鉄剣を探してみましょう」
 馬昆は抜群の剣の腕を持つにも拘らず、自ら気の小ささを告白した呉気に好感を抱いた。

 呉起は傷が癒えると馬昆の店を手伝うようになった。馬昆は主に塩を扱う商人だった。斉のような塩の生産国では管仲の時代に塩は専売となっており、密売商人が巨利を儲け、国政を左右するほどの大富豪となる。
「馬昆殿の店では品物が到着したその日に捌けてしまうのですね」
 呉起は数日馬昆の店の様子を見ていて尋ねた。
「以前は大量に仕入れて、その都度商品を売っていたりしたのですが。この頃は毎日様々な産地から商物が届くようにして、利益は薄くともその日に捌くようにしています。その為には得意先がどれだけ必要としているのか、生産地での値段がいくらなのか調べるのも大変なのですが、大量に運送している途中に盗賊に襲われる危険を考えれば、損失は少ないのです」
「盗賊による損失はそれほど多いのですか」
「年間の荷扱いの半分になる年もありました。荷駄が大きければ大きいほど盗賊に合うのです。盗賊達は街道筋に独自の情報網を持っていて、警護の兵を雇っても必ず襲われるのです。荷駄が襲われないように盗賊達と交渉した年もありましたが、盗賊同士の争いもあり、交渉は長くは続きませんでした」
 呉起は盗賊による荷駄の被害の大きさに驚いた。
「それで盗賊の目に触れても目立たない荷駄にして毎日運ぶようにしたのですか」
「そうです。それでも損害を皆無にする事はできませんが随分と少なくなりました」

「例えば、臨淄から邯鄲までの一本の道が盗賊に襲われることなく安全に通れるとなれば金を払っても通りますか」
「商人達は荷駄の一割を払っても通るでしょう」
「臨淄から邯鄲まで安全な道を作るのにどれほどの兵隊がいるのでしょうか」
「盗賊達は平坦な見晴らしの良い場所で荷駄を襲う事はありません。まずは谷間や曲がりくねった山道など人目が遮られるところでしょう。道は趙、衛、斉の国にまたがりますが二千人もいれば盗賊達は荷駄を襲えないでしょう」
「臨淄や邯鄲の商人達から荷駄の通行費を集めることができれば、二千人の兵を養い、盗賊を討伐することが出来ますね」
 呉起は馬昆の話しを聞きながら思いついた事を言った。

「なるほど、呉起様が帝丘の街で自警団を作られたのと同じ考えですね。たしかにそう言われると出来そうな気がします」
 馬昆はそう言うと呉起という青年の将来に自分も力添えしたくなった。
「あの時は衛の国の公子の後押しがありましたので、商人も信用してくれました。今の私には信用がありません」
「やろうと思えば出来るでしょう。邯鄲と臨淄の商人には私の顔が利くでしょう。あとは三カ国の役人への根回しです。これが一番難しいでしょう」
 馬昆はこの夢のような話しが楽しくなっていた。
「わたしが、いずれかの国の上大夫にでもなれば、交渉は出来るのでしょうね」
 呉起はそう言うと自分の夢のような考えを笑った。
「荷駄の警護をして臨淄まで行ってみようかと思うのですが」
「そうですか。いよいよ発たれるのですか。その前に李香の踊りを見に行かなければあの娘に私が怒られます」
 馬昆がそう言って大きな体を揺すって笑うと、呉起は顔を赤くした。

 翌日呉起は皆と李香の踊りを見に彼女の小屋へ出かけた。
「美しい踊りに心を奪われてしまいました」
 呉起は顔を赤くして李香の楽屋で言った。仲間達は既に何度も来ているのか、踊り子達と親しげに話していた。
「いつまでも。観に来てくれないので、私のことを忘れたのかと思っていました」
 李香は呉起を見もしないで化粧を落としながら言った。
「いや。申し訳ない。なかなか来る機会がなかったのです」
 呉起は李香の言葉にたじろいでいた。
「皆様には何度も観に来ていただいております。私は呉起様がいつ来ていただけるのかとそればかりを願っております」
 呉起が申し訳なさそうに身を縮めていると、李香はいたずらが成功した少女のように嬉しそうに笑った。
「でも、今日来ていただけたので許してあげます」
「今日あなたの踊るのを見ていて趙の公子や大夫が執心だというのが良くわかりました」
 呉起は何とか李香の機嫌を取ろうとして言った。
「呉起様がやっと私の踊りを見に着てくれたと言うことは、いよいよ臨淄へ発たれるのですね」
 李香は呉起の胸の中を見透かしたように尋ねた。
「はい。馬昆殿の店の荷駄の警備を兼ねて臨淄へ行きます」
「それでは、私達が臨淄へ行くまで暫らくの間会えないのですね」
 李香はそう言うと呉起を恨めしそうに見つめた。李香の視線を受けると呉起の心臓は激しく波打ち、息苦しくなった。
「それでは、臨淄でお待ちしています」
 呉起は居た堪れなくなって李香の前から逃げ出した。蔡信が何も言わず微笑みを浮かべたまま呉起の後に従った。

「どうも女は苦手だ」
 呉起は戸惑いを隠すように蔡信に言った。
「惚れたのか」
 蔡信が言うと、呉起は怒ったように見つめた。
「たぶん。そうみたいだ」
 呉起はしばらく蔡信を睨むと、諦めたように言った。
「おまえにも苦手な存在があるのがわかって安心したよ」
 蔡信はそう言うと呉起の背中を叩いて愉快そうに笑った。

「どうやら陳平を斬った件に関してなのでしょうか役所に出頭するようにと馬車で迎えが来ております」
 馬昆の店に戻ると店の者が呉起に伝えた。
「やはり、やくざでも人を傷つけたのだからお咎めがあるのだろか」
 呉起は僅かに不安な表情を浮かべて蔡信に言った。
「いくら邯鄲が大きな街だからと言って、咎める人間をわざわざ馬車で迎えに来ないだろう」
蔡信は役人の呼び出しに対して素直に応じようとしている呉起に言った。店先に出ると役人が丁重に呉起と蔡信を馬車に乗せた。馬車はゆっくりと二人を乗せて役所ではなく大きな屋敷に入った。馬車を下りるとその家の家人が二人を見事な調度品のある部屋へ案内した。
「どうやらお咎めではないらしいな」
 蔡信は安心したように部屋を見回すと言った。

「呉起殿、どうもお呼び立てして申し訳ない。私は邯鄲の大夫の荀稷(じゅんしょく)です。呉起殿の素晴らしい剣名を聞きまして、一度お会いしたいと思い、ご足労願いました」
「呉起です。こちらに居りますのがわが友の蔡信と申します。突然剣名と言われても、やくざとの争いで怪我をしたほどのものです」
「いやいや。ゆっくりと食べながらお話しを伺わせていただきたい」
 荀稷は家人に合図をすると美しい女達が見事な料理を運んで来た。
「呉起殿の生国はどちらですか」
「衛の国です」
 呉起は荀稷の問いに短く答えながら、どうしてここへ呼ばれたか考えていた。
「剣もそちらで学ばれたのですか」
 荀稷はにこやかに二人に箸を動かすように勧めた。
「はい」
「邯鄲にはどのような用件で来られたのですか」
「兵法を学ぼうと思い邯鄲にまいりました」
「なるほど、何の為に兵法を学ぼうと考えるのですか」
「衛の国は小さな国で常に大国の侵略を受けて来ました。もし百選連勝の将軍が衛にいたならば、戦えば必ず負けるとわかっているのに戦を挑もうとする国があるでしょうか。百選連勝の将軍となることが、衛の国に戦のない時代を作ることができるのです。その為に私は兵法を学びたいのです」

「なるほど、戦のない国を作るために兵法を学びたいのですか。あなたには大望がある。我々にもあなたの大望のお手伝いさせて貰えまいか。その代わりと言ってはなんだが、あなたの剣をこの趙の国に役に立ててもらえないでしょうか」
「どう言う意味でしょうか」
 呉起はにこやかに話している荀稷の言葉に箸を止めた。
「あなたの剣である人物を斬ってもらいたいのです。当然成功の暁には私から衛の懐公にあなたを大夫に推薦いたします。懐公とは太子の時から実懇の間ですから」
 蔡信は荀稷に気付かれないように目を左右に動かして呉起に合図した。
「私の剣を見込んで思いがけない言葉をいただき光栄です。しかし私は己の剣を殺人剣にはしないと誓ったのです」
 呉起は馬昆が語った、献侯と桓子の争いを思い出した。もう二度と公室の争いに巻き込まれたくなかった。
「そうですか。やはりあなたの剣は噂通り素晴らしいようだ。今日はお会いできてよかった」
 荀稷は僅かに眉を上げると、それ以上人を斬る話には触れず、邯鄲の街の話に終始して食事を終えた。呉起と蔡信は招かれたと時と同じように馬昆の店まで馬車で送られた。

「これからすぐに邯鄲の街を発ちます」
 呉起は心配そうに二人を待っていた馬昆に言った。
「いったいどうされたのですか」
 馬昆が呉起の言葉の意味がわからず聞いた。
「大夫の荀稷殿に刺客の依頼を受けたのですが、断りました。大夫は秘密を話した相手をこのまま放置しておくとは思えません。やがて役人が来て私達二人を捕らえようとするでしょう。だから今すぐ邯鄲を出ます」
「わかりました。このまま臨淄に向って下さい。急げば今朝出た荷駄に追いつくでしょう。そうすれば臨淄まで何の心配も無く行けます。そうそう忘れるところでした」
 馬昆はそう言うと奥の部屋に何かを取りに行った。
「ご依頼の鉄剣が手に入りました」
 呉起は馬昆から剣を受け取ると鞘から抜いた。青銅製の剣とは違い、刃が鈍い光を放って切れ味の鋭さを物語っていた。剣を持つ呉起に不思議な自信を感じさせた。
「ちょうど良い重さです。心強い道ずれが出来ました」
 呉起は剣を鞘に戻すと言った。
「さあ。これを持って、急いで下さい」
 馬昆は金を蔡信の懐に押し込んで、店の者を城門まで護衛につけて送り出した。呉起と蔡信は馬昆に碌な挨拶もせずに走るように邯鄲の街を後にした。呉起と蔡信は趙の国境の河水まで夜を徹して走った。趙の兵士に追いつかれる事もなく、河水の渡しで馬昆の店の荷駄に追い付く事が出来た。

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# by shou20031 | 2005-01-29 01:02 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.6 邯鄲(かんたん)の夢

c0039644_20593759.jpg「お蔭様で無事に邯鄲の街に辿り着くことが出来ました。本当に有難う御座いました」
 李淵の隣で李香が丁寧に呉起に頭を下げた。
「私共はしばらく邯鄲の街で興行いたします。呉起殿はどちらに滞在されるのですか」
 李淵が孫娘の姿を愛しそうに見つめて言った。
「しばらく塩商人の馬昆(まこん)の所へ身を寄せるつもりです」
「馬昆さんなら私共もよくお世話になっています。是非とも皆様ご一緒に私どもの小屋にいらして下さい」
 李香がいかにも寂しそうに呉起を見つめて言った。呉起の心に李香の眼差しがいつまでも残った。
「必ず皆で伺います」
 呉起はそう言って馬車から離れて馬昆の店に向おうとしたが、他の者達が名残惜しげに離れようとしなかった。呉起が声を掛けると皆は不満そうな顔をしながらついてきた。

 馬昆の店は城門から遠くないところにあった。
「失礼します。帝丘の呉勝の息子呉起と申します」
 店先にいた従業員は呉起と言うよりも後ろにいる盗賊のような集団に驚いたのか何も言わず店の奥に引っ込んでしまった。
「これは、これは。よくぞいらっしゃいました。それにしても呉起様は大きくなられた」
 馬昆は何度も帝丘の呉起の家を訪れていた。
「馬昆さん。本当にお久しぶりです。この度はしばらく世話になります」
 呉起がそう言うと他の者も頭を下げた。
「まあ挨拶は後ほど。さあ奥で旅の汚れを流して下さい。しかし店の者が驚いたのも無理はありませんな。随分と頼もしそうな供の方たちですな」
 呉起の後ろに立っている蔡信達を見て、馬昆は大きな体を揺らすように笑った。
「供ではないのです。帝丘の街で得た友人です」
 呉起は井戸水で髪を洗い、体を清め、服を改めて馬昆に改めて挨拶をした。
「そう言えば、呉起様が帝丘の街で自警団を作られ、やくざを街から一掃したと聞いておりますが、皆様は自警団の方々ですか」
「はい。皆それぞれ一芸に秀でた者達です。野鼠の獲り方や、蛇の裂き方まで生きていく上で大切な事を教えてもらいました」
 呉起は後ろに座っている六名を馬昆に紹介した。

「なるほど、確かに一芸を持たれた方々のようですな」
「しかし、自警団の事までご存知とは驚きました」
「商人は情報が命です。衛の国で昭公が太子亹(び)に弑いられた事は河水の流れより早く 邯鄲のこの店まで伝わります。さらに太子亹が謀反を起こそうとしていた事は半年以上前から我々邯鄲の商人にはわかっていたのです」
「そんな事がどうしてわかるのですか。」
 あの事件に巻き込まれ、太子亹の動きを追っていた呉起でさえわからなかった事をどうして知ることが出来るのか知りたかった。
「簡単な事です。太子亹は二千人以上の兵士を集めたのです。そのお金はどこから出たのか。さらには兵士の装備や武器はかなり以前から注文しなければ、取り揃えられません。それも秘密が漏れるのを恐れて、衛の国の商人には頼むことは出来ない」
「なるほど、太子のご生母様は趙の公女でした。金は趙の国の誰かが出して、邯鄲の商人が武器を取り揃えたのですね。だから事前に何かがありそうだと予想していた」
「そうです。私の店にも大量の塩と穀物の注文が来ました。情報は丹念に集めてみれば何が起こるのか予想することも出来るのです。我々商人にとって戦ほど大きな商売はないですから、いつでも、何処かで、何か起こりそうな情報がないか、気を付けているのです」

「戦で思い出しました。邯鄲に来る途中で李淵と言う旅芸人の一座が陳完という盗賊に襲われているのに出会いました。幸い我々が駆けつけて無事に邯鄲の街まで一緒にやって来ました」
 呉起はしばらく前に城門で別れた李香の美しさを思い出した。
「李淵の一座なら良く知っております。私共の店でも何度か李淵の一座の踊りを見せてもらった事があります。李淵の孫娘の李香はまるで天女のように美しいですね。趙の国の公子様や大臣がご執心だと噂は絶えません。もっとも李淵が手放さないでしょう」
「馬昆殿にも興行が始まったら小屋に見に来て欲しいと伝えてくれとの事でした」
「私の事は取って付けたのでしょう。どうやら、李香は呉起様を気に入られたようだ。ところで、邯鄲の街に何か目的があっていらしたのですか」
 馬昆はそう言うと真面目に話している呉起の顔を見て羨ましそうに笑った。
「はい。帝丘の外の世界の動きを見たかったのです。実は昭公が弑いられた事件では、公子適様は私を大夫に推薦しようとしてくれたこともあり、昭公をお助けしていた公子適様にお味方しておりました。私の見込みの甘さもあり、昭公を弑いられ、大夫の夢も露と消えてしまいました。二度とあのような事がないように、兵法を学びたいと思って邯鄲に参りました」
 呉起は帝丘での苦い失敗について馬昆に話した。

「我々商人は利益のみで仕事をします。どんなに大義名分があろうが、利益のない仕事には手を出しません。商人にとって利益を生むから商売なのです。利益を生まないものは商売ではないのです。こう言っては何ですが、同じではないでしょうか。公子適様は自警団の事を高く評価され呉起様を大夫に推薦しようとしてくれた。その時公子適様に尽くせば己の為になると思われたが。全体の流れに気付いていなかった」
 馬昆は呉起の目を見つめ言葉を選ぶように話した。
「ところが、私の目の前に人が倒れたとします。商人として何の利益もありませんが、知らぬふりをして通り過ぎる事は出来るでしょうか。人として出来ないでしょう。水を与え、薬を与え、食べ物を与え元気になるようにするでしょう。その時、私は利を求める商人ではないのです。呉起様も同じです。事件が終わって全体が見えて来れば、己の行いの浅ましさばかりが見えてしまう」
 馬昆はそこまで言うと笑みを浮かべた。
「己の欲に目が眩んでいたという事なのでしょうか」
 呉起は己の行動を省みて言った。
「我々商人でも目先の利益を求めて大きな損をする事があります。全体の流れを見る目を養う事が大切です。その為に常に様々な情報を手に入れる事を心掛けているのです」
「私はあの時公子適様しか見ていなかったようです。太子亹様も同じような目で見る必要があったのですね」
「趙の国も同じようなものです。趙襄子(ちょうじょうし)様が亡くなられ、その後の君主の相続で揉めています。趙襄子様の決められた太子浣(かん)様が新たに献侯となられましたが、趙襄子様の弟の桓子様が君主の座を狙い謀反を起こしそうな情況です。国中の大夫達はどちらにつけば己に利があるかを考えて夜も良く眠れないでしょ」

 趙襄子は趙簡子の公子であるが、当初は兄である伯魯(はくろ)が太子であった。しかし襄子が聡明であることがわかると、父の簡子は太子を襄子に改めた。長じて趙襄子は太子を立てる時に、本来自分は趙の太子ではなかったとして、わが子を立てずに兄の伯魯の子、代成君(たいせいくん)を太子にしようとしたが亡くなってしまったので、代成君の子で幼い浣を太子にした。そして、趙襄子が亡くなり太子である浣が即位して献侯となる。趙襄子の弟の桓子は、君主の位を兄の子に戻すのはわかるが、その子となれば公孫である。趙簡子の公子たる自分がいるのに公孫に位を譲るのはおかしいと、献侯を追い出して位についてしまう。ところが桓子が一年で亡くなってしまうと、趙の国の大夫達は『桓子の即位は趙襄子の心にそむく事であると』して桓子の子を殺して、追い出された献侯を国に迎えて君主とするのであるが、この時よりしばらく後の事である。
呉起達は馬昆の店に世話になった。

 蔡信は呉起の護衛のように側をはなれず、許駿ら5人は馬昆の店の荷運びを手伝った。帝丘の街の比較にならないほど邯鄲の街は巨大な商業都市であった。帝丘の街がいかに田舎町であったのか、見るもの触れるものが目新しく、呉起と蔡信は朝から晩まで足が痛くなるまで邯鄲の街の兵法や武術の学塾を見て歩き廻った。

「やっと見つけたぜ」
 呉起と蔡信が歩き疲れて木陰で休んでいると、突然剣や棒を手にした十名近くの男に囲まれた。
「陳平」
 呉起がその声に顔を上げると、帝丘で取り逃がしたやくざの親分が不気味な笑いを浮かべて立っていた。
「弟まで世話になったらしいな」
「どうやらおまえ達兄弟とは深い縁があると見える」
 蔡信はそう言うとゆっくりと立ち上がった。
「あの夜はもう少しでおまえらを皆殺しにできたのに、陳完の馬鹿がおまえの嘘に騙されて戻って来たものだから、みんな怯えちまいやがってよ。俺は諦め切れずに邯鄲まで追いかけて来たんだ」
「そんなに深く想ってくれてもおまえに返せるものはこれぐらいしかないな」
 呉起はそう言うと剣の柄に手をかけて一歩陳平に近づいた。
「相変わらずふざけた野郎だ。殺っちまえ」
 陳平は後ろに下がると仲間のやくざに言った。
「蔡信殺すなよ」
 呉起はそう言うと陳平目がけて駆け出した。目の前のやくざの剣を打ち落とし、鞘のままやくざの顔を叩いた。鼻を打ち砕かれたやくざは両手で顔を覆ったが、指の間から血が噴出していた。さらに身を低くして次のやくざの脛を打ち砕いた。瞬く間にふたりの男が道に横たわって呻いていた。蔡信の剛剣はやくざの剣を弾き飛ばして、すでに二人の男を殴り倒していた。呉起は他のやくざに目もくれず陳平に向って剣を突き出した。陳平は危うく呉起の剣を打ち払うと、他のやくざの背中に隠れた。呉起の右腕をやくざの剣が切り裂いた。呉起はその剣を絡めて、宙に舞わせると、自分の剣が奪われた事に驚いているやくざの右腕を剣の腹で叩くと、鈍い音がした。

「陳平。やくざなら男らしく勝負しろ」
 呉起は右腕に鈍い痛みを感じながら言った。
「やくざの親分が仲間の背中に隠れていて恥ずかしくはないのか。帝丘のくずはどこへ行ってもくずだな」
 呉起の右腕から流れる血の雫が乾いた土に吸い込まれていた。陳平は呉起の傷が深いと思ったのか、思い切り踏み込んでくると剣を振り下ろした。剣の打ち合う鋭い音が響くと二人の位置が入れ替わり、呉起の呼吸が僅かに乱れた。陳平は鋭く剣を突き出すと、呉起は剣とすれ違うように踏み込み、陳平の腕に剣を振り下ろした。鈍い音を立てて陳平の右肘から先が地面の上に転がっていた。陳平は呆然と無くなった右肘から流れ出る血を見つめていた。
「陳平。命だけは助けてやる。もし今度会った時も悪行を重ねていればその時は命がないものと思え」
 呉起はそう言うと蔡信と共にその場を離れた。

「呉起よ。傷口を縛っておこう」
 蔡信はそう言うと懐から手拭いを出して呉起の右腕の傷を縛った。
「大丈夫か」
 蔡信は縛り終えると呉起の血の引いた青白い顔を見て尋ねた。呉起は黙って頷いた。
「その怪我は一体どうしたのだ」
 馬昆の店に戻ると許駿達が血に染まった呉起の服を見て尋ねた
「陳平達に襲われた」
 許駿が医者を呼びに走った。蔡信が意識を失いそうになる呉起を抱きかかえるようにして部屋に連れ込んだ。その晩から呉起は熱を出して寝込んでしまった。
 
 呉起は幼い頃の夢を見ていた。母に連れられて花を摘みに来たのだろうか。幼い頃の呉起は男の子と遊ぶよりも、女の子のように花を摘んだり綺麗な色の服が好きで、母親と遊ぶのが好きな子供であった。父親の呉勝は嫡男の呉起が女の子遊びが好きなのが心配で7歳の時から剣術を習わした。剣術の師匠が呉起に度胸をつけさせる為に犬の試し切りをさせた時、犬の首が飛んだ瞬間に呉起は気を失ってしまった。
 出血の為に熱を出していると皆は思っているようだったが、本当は初めて人の手を切り落としたショックで呉起は寝込んでいた。
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# by shou20031 | 2005-01-27 20:47 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.5 旅立ち

  懐公(かいこう)となった太子亹(び)は日々専ら政務に勤しみ、広く士大夫より人材を求め腐敗していた官僚組織を機能する組織に変えるなど、いくつもの改革に取り組んだ。華美な生活に溺れ、政治を省みなかった昭公だったとは言え、し弑いると言う強硬手段を用いた事に当初批判が強かったのだが、真摯に政治に取り組む姿が士大夫達の心を捉え始めていた。
 やくざの一掃された街に自警団は必要なくなったが、自警団の者達の働きを信用した帝丘の商人は、倉庫番や荷受の仕事を依頼するようになり、日々忙しく働いていた。
「私はしばらく旅に出て、世の中の動きを見てみたいと思う」
 呉起は久しぶりに訪ねて来た蔡信に言った。
「そうか。いつから出かけるのだ」
 蔡信は理由も聞かずに出発する日を尋ねた。
「十日ほど後に出発しようと思っている」
「そうか。あまり時間がないな」
 蔡信はそれだけ言うと席を立って帰って行った。
 呉起は蔡信に旅に出るのを引き止められるかと思っていたが、何も言われなかった事に拍子抜けして、むしろ友達甲斐のなさにがっかりもした。

 呉起が旅に出ようと思ったのは、公子適と太子亹の争いの中で自分の見込みの甘さを感じたからであった。あのような無様な失敗を繰り返さないように本格的に兵法を学ぶ決心をした。
 旅に出て外の世界を見たいと言う願いに、父親の呉勝は男は旅に出て世間の厳しさ知ることは良い事だと賛成してくれたが、母親はなかなか賛成してくれなかった。いつまでも子供を手元に置きたい母の想いは強かったが、最後には父親の呉勝の説得で呉起の願いを泣く泣く許してくれた。学塾や剣の師匠、自警団を作るに当たって世話になった商人への挨拶にあっと言う間に十日間は過ぎて行った。

 呉起が両親や世話になった人達に送られて城門を出ると、蔡信が剣を背負って待っていた。
「わざわざ見送りに来てくれたのか」
「おまえが旅に出るなら俺も付いてゆく」
 蔡信は呉起と一緒に旅に出るのが当然のような顔をして言った。
「そうか。じゃあ行くか」
 呉起は蔡信の言葉にほっとして、もう一度帝丘の城門を振り返った。二人はそれ以上何を言うわけでもなく歩き出した。

 食邑に逼塞した公子適は富と兵を蓄え、十一年後適の子、頽(たい)は懐公を弑いる事になる。衛の国は公族同志の殺戮を更に繰り返す事になるが、この時の呉起には想像することも出来ない。

「おまえと一緒に旅に出たいのは俺だけじゃないようだ」
 しばらく行くと道の脇に様々な格好をした男たちが二人を待っていた。許駿(きょしゅん)、ち超耳(ちょうじ)、郭犀(かくさい)、華元(かげん)、李克(りこく)の五人がまるで盗賊のような姿で立っていた。
「俺達を置いて行くつもりじゃないだろうな」
 背中に炊事道具を背負っている許駿が言った。
「私と旅に出ても、何も良い事はないかもしれない。むしろ帝丘の街にいるよりもひもじい思いをするだろう。それでも良いのか」
 呉起は皆が待っていてくれた事で胸が熱くなっていた。
「かまわんさ。あんたと一緒だと何か面白そうな事に出会える気がするのだ。旅費の事は心配するな。食うだけなら何とでも出来るさ。学問は出来なくても鳥や獣を取るのは得意な奴等ばかりさ。好きじゃないかもしれんが、待っている間に野鼠を何匹も獲っているくらいだからな」
 超耳がそう言うと、李克が荒縄に吊るした大きな野鼠を呉起ににやりと笑って見せた。
「今日は鼠汁だよ」
「ところで何処へ行くのだ」
 蔡信が鼠を見ていやな顔をしている呉起に尋ねた。
「趙の邯鄲(かんたん)へ行く」

 邯鄲は元々衛の領土であったが、この頃は晋の領土で、これより五十年後には趙の都になった。河水に面した商業都市で、当時は斉の臨淄と争う二大商業都市であった。臨淄の人口が70万程度と言われているから、邯鄲も勝るとも劣らない大都市であった。帝丘から邯鄲までは街道を歩いて行こうとすれば9日かかる。河水を船で行けば2日ほど早く到着する。

「歩いて行く」
 呉起はできるだけ多くの土地や人々を見たかった。
 不思議な集団が歩き出した。先頭を行く呉起を除けば、夜盗か盗賊の集団と見間違われても仕様のない姿であった。先頭の呉起が後の世に論語としてまとめられた一説を述べると、後に歩いている者達が順番に復唱してゆく。何度か復唱しているうちに自然と覚えてしまう。解らない所は、最後に質問するという形で、盗賊と見間違う集団は学びながら旅をした。森に入れば、罠を仕掛けるのが上手い者、鳥を射落とすのが上手い者、魚を獲るのが上手い者が師匠となり呉起に手ほどきをした。呉起は目を輝かせて獲物を狙った。蛇を捕まえ頭を押さえて歯で蛇の皮を裂いて剥くことを覚えた。腹を痛めれば薬草を探して飲み、歩いて足を痛めれば草を摺りこんだ。帝丘の街を出た時のように二度と野鼠の姿を見て顔をしかめることはなかった。

「おい、あそこで何か騒いでいるぞ」
 遠目の利く郭犀がはるか前方を指差して言った。
「女の声が聞こえる」
 早耳の超耳がそう言うよりも早く郭犀と共に走り出した。
「どうやら女達が襲われているようだな」
 呉起が蔡信にそう言って走り出した時には他の三人は随分前を走っていた。どうやら旅回りの一座が盗賊に襲われているようだった。呉起と蔡信が現場にたどり着いた時にはまるで盗賊同士が獲物を争っているようだった。十人ほどの男達が旅芸人の一座を取り囲んでいた。
「貴様ら余計な手出しをすると、命を落とすぞ」
 大斧を抱えた盗賊の首領らしい髭男が呉起に向かって言った。
「仲間は、女が助けを求めているのに、素知らぬふりは出来ないらしいのだ」
「ふざけた口を利く野郎だ。てめえから殺してやる」
 そう言うと男はいきなり大斧を呉起目がけて振り下ろした。呉起は振り下ろされた大斧を体を捻って避けて、一瞬呉起の体が消え、姿が見えた時には剣を髭男の首筋に当てていた。
「このままその汚い首を切り捨ててもいいのだ。死にたくなかったら斧を放して、仲間に引き返せと命じろ」
 髭男は恐怖に震えながらも何も言わずにいたので、呉起は僅かに剣を引いた。
「うわー。おまえ達俺を殺す気か。さっさと引き返せ」
 髭男の首筋を冷たい感触が走り、やがて鈍い痛みがどんどん強くなって来た。首に当てた剣の先から一筋の血が流れた。見掛けによらず髭男は腰を抜かして座り込んでしまった。なかなか目の前の獲物を諦め切れない盗賊達だったが、大男の蔡信が剣を振り上げて盗賊達に向って行くと、一斉に逃げ出した。

「許駿。この男を縛ってくれ」
 呉起はそう言って大きな溜息をつくと剣を鞘に収めた。生暖かく気持ちの悪い汗が頬を流れた。果たして自分には髭男の首を切り落とす勇気があったかどうか呉起には自信がなかった。

「なんと言ってお礼を言えば良いのか」
 一座の座頭らしい老人が呉起の前に現れて礼を言った。盗賊の首領よりも見事な顎鬚を生やしていた。
「驚いたでしょう。どちらが盗賊かわからなかったでしょうから」
 呉起はそう言うと後片付けしている若い女性達と鼻の下を伸ばして話している仲間達を見て言った。
「とんでもない。皆様のお陰で助かりました」
 老人の自分の名前を李淵と名乗った。年老いているがどこか威厳のある人物だった。
「まだ助かったわけではありません。彼等は必ずもっと大人数で襲ってきます」
「私共だけではどうしようもありません。どうかお助け下さい」
 李淵の孫娘の李香が呉起の言葉を聞くと不安そうに言った。娘と言うにはまだあどけなさが残っていた。
「我々は邯鄲へ行くのですが、どちらへ行くのですか」
 呉起は同じ方向へ向うのであれば行き掛かり上、手助けしたいと思った。
「私共も邯鄲へ行くのです。どうかご一緒にお願いします」
 李香は呉起の言葉を聞くと手を取らんばかりに嬉しそうに言った。李香の無邪気さが呉起の心を引き付けた
「私が嫌と言っても、あの者達が許さないでしょうね」
 呉起は堅物だと思っていた蔡信までが若い女と楽しそうに話しているのを見て驚いていた。まあ自分でさえ李香の美しさに心を動かしているのだからと自笑した。
「今夜は安全な所を見つけてなくてはいけません。邯鄲まであと二日ですから、なんとか方法を考えましょう」

 若い女が踊りを披露する十二名ほどの旅芸人の一座で、4台の馬車に荷物と女を乗せて邯鄲の街へ向う途中であった。
「それにしても見事な剣術ですね」
 李淵が顎鬚を触りながら尋ねた。
「見かけだけです。まだ人を切る度胸もありません」
 呉起は剣を褒められて照れくさそうに言った。
「それにしては、首の皮一枚裂いて脅すなど見事な度胸です。こう見えても私も昔は戦場を走り回ったことがありますが、あなたほどの技を見た事がない」
 李淵は呉起の剣の腕を褒めた。
「しかし、いくら剣が強くても、戦える相手は一人です。遠くから多くの矢を射られれば命を落とします。多くの敵に囲まれれば、必ずや負けるでしょう」
 呉起は公子亹との争いを通じて剣術の限界を知り、兵法を学びたいと思っていた。
「なるほど、無敵の剣は無いと言うことですか」
 李淵は若い呉起の言葉に感心した
「いいえ。剣という己の力に驕れば、必ずやそれ以上の力に負かされます。争わないことが一番でしょう」
 
 呉起は縄で縛られている盗賊の首領を見て言った。
「名前は何と言う」
「陳完(ちんかん)だ。ここらで盗賊の陳完と言えば知らねえ者はいねえ」
 陳完と言う盗賊は縛られながらも大きな声で豪語した。
「やくざの陳平の弟だ」
 縄を持っている許駿が言った。呉起は陳平の名前を聞くと、思いついたことを鼻の下を伸ばしている蔡信の耳元で話した。
「俺たちに、どこまでも縁がある兄弟らしいな。陳平も一緒にいるのか」
 蔡信は呉起の話しを聞くと呆れたように見返して言った。
「ああ。帝丘の街で大きな顔をしていたらしいが、十日ほど前に酷い姿で戻って来た。何だか知れねえが、呉起とか言う若造を叩き殺してやると叫んで酒ばかり飲んでやがる」
 陳完はあまり面白くもなさそうに陳平の事を話した。
「兄貴とはあんまり仲が良さそうじゃないな」
「当たり前だ。突然戻って来て、親分顔されたんでは俺の立場がねえ」
 陳完は余程頭に来ているのか口から泡を飛ばして言った。
「ところで陳完よ。新しく衛の君主が変わって、街道筋の取り締まりが厳しくなったのを知らないらしいな。おまえは仲間が助けに来ると思っているだろうが、来たら一網打尽なんだよ。俺達が知らせれば兵隊がすぐに駆けつけるようになっているんだ」
 蔡信が陳完の耳元でわざと声を潜めて言った。
「陳平が子分を捕まえられて悔しがっている呉起とは、どうやら私の事のようだな。兄貴の陳平だったら知っているだろうが、俺達は公子適様の命令で、今度はおまえら盗賊を捕まえに来たんだ」
 呉起はそう言うと許駿に目配せした。
「悪いが、後ろにいる隊長の高遠殿に、盗賊がこいつを取り戻しに来たら合図するから見つからないように離れているように伝えてくれ」
 呉起にそう言われると許駿はにやりと笑って走り出した。陳完は許駿の足の速さに驚いてしばらく口を開けて見ていた。

「どうやら暗くなってきたから。ここで休みましょう。そのほうが盗賊は襲って来やすいでしょう。心配しなくても大丈夫です。百人以上の兵隊が合図ひとつで駆け付けてくれる手配になっていますから」
 呉起は李香に安心するように微笑んだ。馬車4台で囲み、一座の人間が中で寝る準備をした。蔡信に火を焚いてわざと一座の姿が遠くからもわかるようにした。
「こんなに明るくして大丈夫ですか」
 呉起が火を焚いていると、李香が心配そうに尋ねた。
「盗賊が襲って来やすいようにしているのです。なかなかこんな機会はありませんから」
 呉起は馬車の車輪に縛られている陳完に聞こえるように言った。李淵は呉起の言葉を聞いても不安そうに一座の者達のところへ戻って行った。簡単な夕食が終わると女達が歌いだした。
「おい。糞がしたい」
 女達の華やかな歌声を聞いていると陳完が呉起に向って言った。
「仲間が来たら一緒に殺してやるからそれまで我慢しろ」
 蔡信が面倒臭そうに言った。
「ふざけるな。糞ぐらいさせろ」
「しょうがねえな」
 蔡信は呉起に目で合図すると、陳完を立たせると縛った縄を持って暗がりに連れて行った。
「縄がきつくてしゃがめねえ。緩めてくれ」
「文句ばかり多い男だ」
 蔡信はそう言うと縄を緩めてやった。陳完は岩陰にしゃがんだ。蔡信が背中を向けた瞬間に陳完は草むらに飛び込んだ。

「大変だ、陳完が逃げたぞ」
 蔡信は大きな声で叫んだが、追いかけようとはしなかった。
「こら。逃げても無駄だ。陳完」
 呉起は慌てた様子もなく大きな声を出して叫んだ。許駿も戻って来て大きな声を出して陳完を捜す格好だけをしていた。
「逃げられて、大丈夫なんですか」
 李淵が心配そうに呉起に話かけた。
「いや。これで盗賊は襲って来ないでしょう」
 呉起は笑いを堪えながら老人に言った。
「どう言うことなのですか」
「簡単なことです。私達は帝丘の街で陳完の兄の陳平の子分たちを捕まえたのです。ですから我々が兵隊を従えて陳完を捕らえに来たと言う話しを信じ込ませて、わざと逃がしたのです。陳完は仲間の所に逃げ込んで陳平にこの話しをするでしょうから、盗賊達は用心して今夜は襲ってこないでしょう」
「なるほど、では陳完をわざと逃がしたのですか」
「はい。陳完を逃がす前に盗賊が襲って来ないか心配でしたが、どうやら間に合ったようです」
「なるほど、見事に争わずに勝つ手段を用いたのですね。あなたの才覚と度胸には恐れ入りました」
「いやいや。所詮その場しのぎです。盗賊が追ってこないように、日の出前に出発しましょう」

 翌朝、日が昇る前に旅芸人の一座と呉起達は出発した。若い女達は一晩同じ空の下で過ごした事で心を許したのかしきりに呉起や蔡信らに気軽に話しかけたり、唄を歌ったり、華やかな旅となった。夕暮れ前に渡船で河水(黄河)を渡り、趙の国に入った。
翌日の昼頃に一行は邯鄲の城壁の前に到着した。
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# by shou20031 | 2005-01-26 16:17 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.4  大罪

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 その夜、呉起が寝つけずにいると窓を激しく叩く者がいた。
「誰だ」
「超耳です。たった今戻りました」
 呉起は寝台から立ち上がると窓を開けた。
「ご苦労だった。しかし、この時間どうやって街に入ったのだ。城門はすでに閉まっていただろう」
 超耳は公子亹(び)の兵隊に従って食邑を出て来た。兵士達が城外で一旦隊列を整えている間に密かに城門を潜り呉起に知らせに来た。
「蛇の道は蛇と申します。それよりも公子亹様の兵士がすでに城外に来ております。」
 蔡信の父親は下級官吏であったが城門警備をしていた。蔡信は父親を通して超耳が出入り出来るようにしてあった。
「何だと。国境に向かうはずではないのか」
 呉起は超耳の報告を聞くと、自分の不安が現実となってしまったことにうろたえた。
「いいえ。彼等は夜間にも関わらずこれより城内に入る支度をしています」
「そうか。私は公子適の屋敷に向かう。戻ったばかりですまぬが、蔡信達を起こして公子適様の屋敷に来るように伝えてくれ」

 呉起は剣を持って公子適の屋敷へ走った。月明かりもない真暗な帝丘の街に呉起の足音が響いていた。呉起は公子適の屋敷の門を激しく叩いた。やっと掴みかけた夢が逃すわけにはいかなかった。
「急いで警護を固めて下さい。公子亹の兵がすでに城門の外に来ています」
 門番に起こされて、まだ眠そうな高遠に呉起は興奮して言った。
「何だと。公子亹様は斉との国境に向かったのではないのか」
 高遠は呉起の言葉を聞くと慌てた。
「いいえ公子亹の邑に残しておいた私の手の者がたった今知らせにまいりました」
「それでは斉との国境の争いと言うのも嘘だったのか。なんと言う事だ、公子亹は衛の全ての常備兵の兵権を握っていることになる」

「一体何を騒いでおるのだ」
 公子適が屋敷の騒ぎに気がついて起きてきた。
 呉起は斉に向かったはずの公子亹の兵が城外に戻っていることを公子適に説明した。高遠は警備の兵を指揮して屋敷内に出来るだけ多くの旗を掲げ、篝火を燃やした。公子適の屋敷が夜空に煌々と照らし出された。やがて蔡信と自警団がまるで盗賊のような格好をして到着した。
「そうであったか。夜遅くにもかかわらず、私の為に知らせてくれたのか」
 公子適はそう言うと呉起の手を取った。
「しかし、公子亹の狙いはどうやらこの屋敷を襲うだけではないようだ。高遠。急ぎ馬車の準備をしてくれ、私は宮殿に駆けつける」
「公子適様、まさか亹様が宮殿を襲われると言うのですか」
 呉起はその時はじめて公子亹の狙いが公子適ではなく昭公の命だと言う事に気付いた。
「そなたの思ったとおり、私を襲うのであれば1旅の兵もいれば十分だ。これほど大掛かりな策を用いて兵権を握ったからには、昭公のお命を狙う以外にありえまい」
「しかし、昭公は公子亹様にとってお父上にあられます」
「呉起よ。愚かな衛の公族は親子、兄弟の殺し合いを幾たびも繰り返して国政を省みなかったのだ」
 
 突然、屋敷の外で多くの人々の足音と甲冑の触れ合う音で騒がしくなった。篝火に公子亹家の文様が映し出された。
 公子適の屋敷を公子亹の食邑から来た私兵が囲んだ。
 公子適の屋敷の門が開き一台の馬車が屋敷を出ようとした。
「私は公子適である。これから宮殿に向かうので道を開けよ」
 公子適は大きな声で包囲している兵士に言った。

「公子適様。屋敷にお留まり下さい。どうしても聞いてもらえない場合はお命を頂戴してもよいとの命令を受けております」
 兵士達の中から煌びやかな甲冑を着けた隊長が出て来て言った。
「いったい誰の命令だ。私は公子適である。私には君主である昭公しか命令することが出来ない」
 公子適は隊長を威圧するように胸を張って言った。
「すでに衛の国の君主は変わられました。太子であられた亹様が新たな衛の君主です」
 隊長はそう言うと後ろにいる兵士に命じ公子適に弓を向けた。
「どうしてもお聞きいただけなければ、命令通り公子のお命をいただきます」
 隊長が剣を振り下ろすと馬車の御者に何本もの矢が鈍い音を立てて突き刺さった。御者は自分の胸に刺さった矢を不思議な物を見るような目で見つめて倒れた。

「おのれ。何をする」
 公子適は家人が射殺されたのを見て、怒りのあまり剣を抜いて隊長を切り倒そうとした。高遠は慌てて公子を抱きとめると、部下に向かって馬車を屋敷に戻し、門を閉じるように命じた。
「適様。堪えて下さい。例えこの包囲を抜けて宮殿に向かっても、昭公はすでに亡くなられているでしょう」
 高遠は自分の体を盾にして公子適を抱きかかえた。
「何と言う事だ。衛の公族は呪われた血が流れているのか」
 屋敷内に戻された馬車の上で公子適は泣き崩れた。
呉起と蔡信は公子適の悲しげ姿を見つめていた。公子適は高遠に抱えられるようにして屋敷の中へ戻った。

「呉起よ。俺達はどうしたらいいんだ」
 蔡信は公子の姿を見つめながら尋ねた。呉起は掴みかけていた夢が、目の前で壊れてゆくのを呆然と見つめていた。。
「今夜はこのまま公子適の警護をしていよう」
「大夫の話も水の泡となったか」
 蔡信は大きなため息をついた。


  斉の国境より戻った帝丘城外の公子亹の陣営では今夜宮殿を襲うことを告げると、反対した大夫を2人見せしめのために兵士達の前で斬首した。血を見た事により兵士の士気が高揚したのか大きな掛け声を上げた。松明を掲げた兵士達が帝丘の街の城門の前に整列した。松明の弾ける音と炎が公子亹の心を狂わせていた。御者が大声で緊急の知らせで宮殿に向かうと告げると、かねて打ち合わせていた通り城門が開いた。
 
 公子亹(び)が手を上げると兵士達は駆け足で宮殿に向かった。馬の鳴き声と車輪の立てる音が静まり返った帝丘の街に響き渡った。公子亹は激しく揺れる馬車の上に自分の気持ちが真っ白になってゆくのを感じていた。宮殿に到着すると兵士を率いて昭公の住む奥の後宮に向かった。公子亹は警備の兵士が阻もうとするのを、無言で切り伏せた。自分の剣が兵士の首を断ち切り、激しく鮮血が噴き上がるのを、まるで夢の中の出来事のように見つめていた。
 宮殿の警備兵と公子亹の私兵の激しい戦いが始まった。しかし。圧倒的な数で押し寄せられ、警備兵が次々と床に倒れた。兵士達の叫び声と激しく打ち合う剣の音が、狂ってゆく公子亹の心をまるで蛇の舌のように冷たく舐めていた。
 
 後宮に踏み込んだ兵士達は、普段入る事のできない艶かしい雰囲気と女達の上げる嬌声に感覚を狂わし、禁じられているにも拘らず侍女達を押し倒し出した。衣を引き剥がされた白い肉体と侍女の上げる叫び声が兵士達の心を一層狂わせた。
「馬鹿者。後宮の女に手を触れた者はその場で打ち首だ」
 女の脂粉に狂った兵士を刺し殺す隊長の声に兵士達は我を取り戻した。
兵士達は昭公を探し出すと言う命令をやっと思い出し、寝台の下や納戸の中を捜した。
「太子。まだ見つかりません」
 鎧を着けた管亮が公子亹の脇に立って言った。
「必ずどこかに隠れている。もう一度探し出すのだ」
 血を浴びて阿修羅のようになった顔が松明の明かりに照らし出された。顔を検めるために、叫び声を上げて逃げ惑っていた女達は一つの部屋の中に集められた。嬌声はやがて泣き声に変わった。太子亹は剣を手にしたまま昭公を捜し続けた。厨房の竈の灰や便所の壷の中まで検めさしたが、見つけられなかった。
「夜が明けるまでに見つけなければまずい事になります。様子を伺っている大夫達も朝になれば宮殿に来るでしょう」
 一晩中続いた狂乱の疲れを顔に表した管亮が言った。
「宮殿から出てはいないはずだ。必ずこの中にいる。探し出した者には思いのままの恩賞を出すぞ。もう一度良く捜すのだ」
 公子亹も捜索に疲れ切った兵士を励まして、もう一度捜させた。
宮殿の床下や屋根裏や屋根の上まで兵士が上がって捜したが見つけられなかった。
 
 やがて朝日が宮殿に差し込んだ時、衛の歴代の君主の霊を祭る廟堂の中から昭公と妃が見つけ出された。昭公は侍女の服を纏い、哀れなほど震えていた。
 公子亹は目の前の男に対して、幼い頃から両親から離れて育てられた為だろうか、一度も肉親の情を感じた事はなかった。会う時はいつもだらしなく女を抱いている姿で、そんな男がいつの間にか君主となっていた。

「私がそなたに何をしたと言うのだ」
 兵士に引きずり出された哀れな昭公はすがるような目をして公子亹に言った。
「荒廃した田畑と疲弊した民を想い、華美に溺れた生活を改められ、真摯に政治を行うようにと、私は何度もお諌めもうしあげたはずです」
 公子亹は剣を後ろにして昭公に話しかけるように片膝を床についた。形ばかり諌めていた言葉が今では、真実の言葉のように口から出た。
「わかった。そなたの申す通りに改める。酒も止める。好きな妃をおまえにやる」
「すでに、矢は放たれたのです。天に代わってお命をいただきます」
 公子亹の目が怪しく輝くと後ろにいる兵士に命じた。兵士は一瞬の戸惑いを見せた。兵士にとって貴人である君主を殺すことが恐ろしくあった。
「何を怯えておる。殺せ」
 震えている兵士を見て管亮が激しく命じると、兵士は何か呟くと目を閉じて剣を昭公の胸に突き刺した。衛の31代昭公の治世はわずか6年であった。
「これで終わったな」
 公子亹は横たわる昭公の姿も見ずに立ち上がると管亮に言った。管亮は昭公の衣服から衛の君主の印璽を取り出して太子亹に渡した。この日の朝より懐公の治世が始まった。
「いえ。新しい衛の君主としてこれからが本番です」
 管亮は血に濡れた剣を鞘に収めると、己が夢に見ていた宰相となった事に気がついた。
「早速、新たな君主として、卿大夫を招集して閣議を開かねばなりません」
 朝日が昇ると公子亹の私兵は公子適の屋敷の包囲を解いた。
 公子適は新たな君主懐公の招きにも応じず自分の食邑に籠ってしまった。翌日からはまるで何も変わったことなどなかったように、帝丘の街の日々は過ぎて行った。
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# by shou20031 | 2005-01-25 21:28 | 中国歴史小説


無敗の将軍「呉子」 若き日の呉子 Vol.3 公子亹の陰謀

  呉起はやくざの親分の陳平から呼び出しを受ける事を予想して、事前に公子適家の警護隊長の高遠と打ち合わせをしていた。自警団を作った呉起と蔡信を呼び出す時は、陳平は子分のやくざを集め必ず二人を殺そうとするはずだから、それはむしろ一挙にやくざを捕まえる機会であると、陳平の動きを待っていた。その為に自警団の街の見廻りを以前より頻繁に行なったり、陳平の家の前をわざと見廻らせた。
「呉起のおかげで帝丘の街の大掃除が終わったようだな。ほう。おまえが帝丘一の悪童と言われた蔡信か。呉起を待ち伏せして殴り倒して得ようとしたものは何だったのだ」
 公子適は、体を硬くして控えていた蔡信に気軽に話した。
「生涯の友を得ました」
 蔡信は貴人の公子適に声をかけてもらい緊張して顔も上げる事も出来なかった。やっとの思いで肩で息をするように答えた。
「公族の私には、残念ながら生涯の友と呼べる者はいない。二人が羨ましいぞ。呉起よ。帝丘一の頭を二度も殴らせた事が無駄にならなかったのう。これからも二人の力を私に貸してくれ。」
  公子適はそう言うと家人に声を掛けた。それを待っていたかのように何皿もの料理が持ち込まれた。緊張していた蔡信もほっとした笑顔を呉起に向けた。
「この度は高遠殿の素早い手配のおかげで助かりました。残念ながらやくざの親分の陳平を取り逃がしましたが、彼一人だけでは何も出来ないでしょう」
「今回の事は、本来は役人が対処しなければならない事だが、司寇(警察長官)が陳平を取り締まれんと言ったのには驚いた」
 君主である昭公が怠惰な生活に送り、国政を省みないため、従う官僚達は己の利権と財産を増やす事に励む者が多かった。
「陳平は帝丘の役人にそうとうな賄賂を贈っていたのでしょう。だから余計な工作をしないで、 平然と私と蔡信を殺そうとしたのです」
陳平は衛の国の腐敗した官僚組織の弱みにつけ込んで、やくざとして帝丘の街を手中にしようとしていた。
「呉起よ。帝丘のやくざを見事な手腕で掃除してくれた。私は機会を見てそなたを昭公に推薦しようと思っている。これからは衛の国の為にその才能を発揮してくれ」
「畏れ多いお言葉でございます。この度の件は決して私だけの力ではありません。ここにいる蔡信やその仲間がいて初めてなしえた事であります」
 呉起は公子適の言葉を聞くと自分の思惑通り計略が進んでいる事に安心した。
「わかっておる。私も当初は帝丘の街の掃除が出来たらそなたを我が家人としようと思っていたが。むしろそなたの力量は国の為にこそ役立てるべきだと思ったのだ。私はそなたを大夫に推薦しようと思っておる。そうすれば我が家人でいるより力を発揮出来るであろう。そして多くの家人を雇わねばなるまい。自警団はそなたの家人とすればよい」
 大夫には上、中、下があり、上大夫は大臣、中大夫は副大臣、下大夫は上級官僚でいずれも貴族である。君主から食邑(領地)が与えられ、下大夫でも30人程度の家人が必要となる。さらに官僚として上士、中士、下士と分かれ、給与として穀物を支給される。いまだ二十歳にもならない呉起をいきなり貴族にすると言う、まるで夢のような話であった。呉起は予想以上の公子適の評価に思わず声を上げそうになった。
「衛は国と言うにはあまり小さく、戦うにしてはあまりに力がない、そのため魯と和し趙に兄事している。そなたにはこの衛の国のために私の手助けをして欲しいのだ」
 公子適は呉起に対して、衛の国の難しい外交について話した。それまで微笑みを浮かべていた公子適は、国政を省みない兄に代わり、小国衛の外交を一手に担う苦労を険しい顔で語りはじめた。
「衛は河水に挟まれた要衝で肥沃な土地である。三晋(趙、韓、魏)斉、魯など国境を接する大国ばかりでなく、異民族もしばしば国境の村々を侵している。さらに大規模な戦が起これば戦に負けなくとも、田畑は荒れ国費は底をつくのだ。衛の国を滅ぼさない為には、大国同士の利害を見極め、常に衛の国の生き残れる道を探し続けなければならない。そなたは歳は若くとも周旋の才がある。その才能を衛の国の為に発揮してくれ」
「ありがとうございます。微力ですが公子の手足となって衛の国に尽くしたいと思います」
呉起は公子適の言葉に、己が衛の国の為に東奔西走する姿を思い浮かべていた。
「悲しいかな衛の国は中原の地にありながら、代々公室は国や民を想うことなく、争いを繰り返して国を疲弊させて来た。さらには士大夫までもが己の利権の為に君主を追放するなど、国土を荒廃させることはあっても豊かにすることはなかったのだ。幸いにしてここ何代かの公室は争うことなく、国土を削る事もなく平穏な時期が続いておる。この平和な時が続くように、諸国との外交を巧みに行わなければならない」
 その時突然外で人が叫ぶ声がして騒がしくなった。蔡信が剣を引き寄せ、外の様子を見る為に立ち上がった。
「いったいどうしたのだ」
 公子適は立ち上がり自ら部屋の扉を開けて、暗い庭を光を当てて捜索している兵士に尋ねた。
「不審な者がこの家の様子を伺っていたのです」
 剣を持って部屋の前に立っていた警護隊長の高遠が言った。
「どこかの国の密偵なのでしょうか」
 呉起が公子適に言った。
「必ずしも外国の密偵とは限らん。私の動きを好ましく思っていない者は帝丘の街にも少なくない。まだ刺客まで放たれてはいないようだが」
 公子適はそう言うと呉起に笑いかけた。
「必ずしもそうとは言い切れません。近頃公子亹(び)様が自邑で密かに私兵を集めていると言う噂があります」
 高遠は厳しい顔をしたまま公子適に言った。
「高遠。迂闊な事を申すな。亹様は太子である」
 公子適が高遠の言葉を断つようにたしなめた。高遠はまだ何かを言いたそうであったが、頭を下げると部屋の前から引き下がった。
「私どもは公子のお言葉に甘えて、長居をしたようです」
「呉起よ。これからは衛の国の民の為に力を尽くしてくれ」
 公子適は頭を下げて退出しようとする呉起に慈しむように言葉を掛けた。
呉起はそのまま公子の屋敷をさがらず、先程の言葉が気になって高遠の詰めている部屋を訪れた。
「先程の不審者はどうなりましたか」
「逃げられたようだ。この頃あのような事が度々あるのだ」
 高遠はそう言うと呉起と蔡信に椅子を勧めた。
「公子亹様が私兵を集めているとか。どう言うことなのでしょうか」
「あまり大きな声では言えないのだが、亹様は母上が趙の公女である為か、気位が高く、あまり評判がよくないのだ。昭公はご寵愛している妃の公子を新たに太子にすえたいという噂もある。さらには士大夫達の間では次の君主には公子適様をとの声もある。当然のように面白くないのは太子の亹様だ」
 高遠は一緒に戦った呉起と蔡信に心を許したのか、帝丘の街には流れない宮殿内の噂を声を潜めて話した。
「それで亹様が食邑で兵を集めていると言う事なのですか」
 呉起は関係のない世界だと思っていた公室内の争いにこれから自分は関わってゆくのだろうかと思って聞いた。
「あくまでも、全てが噂なのだが。ある日突然刺客が公子様を襲うかもしれん。噂話にさえ敏感に気を配っておらなければ、我々の仕事は勤まらんのだ」
「わかりました。自警団の中に面白い才能を持っておるものがおります。亹様の噂の件は少し私の方で調べてみましょう」
「呉起どのであれば間違いはないと思うが、くれぐれも怪我をせぬように気をつけてくれ」
「何かわかり次第高遠殿にお知らせいたします」
 呉起はそう言うと蔡信と共に公子邸を後にした。

「蔡信。どうも太子亹様が兵士を集めていると言う噂が気になる。早速で悪いが、許駿と超耳に噂を探らせてくれないか」
 家に戻ると呉起は銭袋を蔡信の前に置くと言った。
 中国の貨幣は殷の貝貨から始まり、春秋時代後期の通貨は銅製もしくは青銅製の貨幣が各国独自に製造して流通していた。三晋(趙、魏、韓)では農具の鍬の形をした布貨、斉や燕では刀の形をした刀銭、秦では穴の開いた円形の円銭、楚では蟻鼻銭が流通していた。秦の通貨単位は1斤または1鎰=24両、1両=24銖であった。
「太子の亹様が兵を集められて公子適様を襲うのだろうか。今公子適様が襲われると、呉起が大夫になれる話もなくなるのか。これは何とかしなければならないな」
 蔡信は眉間に皺を寄せながら言った。
「そうだ。何があろうが公子適様をお守りしなければならない」
 呉起は蔡信が自分自身で考え始めている姿を見て頼もしく思いながら言った。
「早速明日から、二人によく言い聞かせて、亹様の食邑を探らせよう」
 蔡信はそう言うと銭袋を懐に入れて呉起の部屋を出た。
 呉起は一人になると、やくざの陳平から呼び出しを受けた事から始まった、今日一日の目の回るような出来事をもう一度思い出していた。
 
 その頃公子亹邸を趙からの使者が密かに訪れた。
「趙襄子(ちょうじょうし)様がお倒れになったそうです」
 管亮は趙の使者からの知らせを公子亹に伝えた。管亮は趙の大の荀稷に大金を送り何か趙の公室に変化があれば知らせるように頼んであった。更に公子亹が衛の国の君主になれるよう趙の公室にも工作を頼んでいた。
「亡くなられたのではないのだな」
 公子亹は管亮に鋭い目を向けて確認した。
「はい。まだ亡くなられていないそうですが。どうやら長くはもたないようです」
「そうか。急いで計画を実行に移さなければならない。食邑の兵士を呼ぶまで趙からの知らせが昭公に届かぬことを祈るしかないな。我々の動きを誰にも勘づかれていないだろうな」
 管亮は公子亹を巧妙に説いて、昭公を弑(しい)る考えを公子亹自らの考えのように思い込ませていた。もとから猜疑心の強い公子亹が昭公を弑いる決意をするには時間はかからず、実行計画を練るうちに、公子亹は魅入られたように昭公暗殺計画に没入していった。管亮は己が宰相になる為に口にした言葉が、公子亹の胸の内で禁断の果実のように怪しい芳香を放ち、公子亹の心を虜にしているのを確信した。
「街中に放っていた密偵の知らせによりますと、公子適様が呉起と言う若者を使って帝丘のやくざを一掃したようです」
 管亮は密偵より知らされた話を告げた。
「そう言えば宮殿で公子適さまが司寇に何か怒っていたな」
「公子適様はやくざの取締りと言う名目で三十名の自警団を家人として、捕まえたやくざ十数名も私兵にするそうです」
「適様に気付かれたわけではないだろうな」
 公子亹の心に何か引っかかるものを感じた。僅かばかりの見落としが計画全体を駄目にしてしまうこともあるのだ。
「心配はないでしょう。自警団とやくざを合わせても50人にも満たないのです」
「管亮、兵士はどの位集まっておるのだ」
「およそ一師(2500人)ほどの数になっております。夜間宮殿を守る兵士は三百です。この屋敷にいる兵士を合わせれば宮殿を制圧するには充分の数です」
 管亮は兵士を少人数ずつ邑から呼び寄せており、すでに屋敷内に300人以上集めていた。
「私に味方する大夫はどの程度いるのだ」
「半数に満たないでしょう。しかし殆どの大夫は様子見でしょうから気にする事はありません。宮殿を制圧してしまえば亹様が君主であられます」
 公子亹の昭公に対する諫言や、多くの大夫を招いた宴会の効果が出て、公子亹の評判は公子適に及ばないにしても、以前よりも良くなっていた。しかし、事前に計画を打ち明けて協力を得られるほど信頼できる大夫は一人もいなかった。
「私が昭公を弑いたと聞いて、叛旗を翻すのは公子適様しかいないだろう。公子適様の屋敷に家人は何人いるのだ」
「密偵の知らせですとおよそ百名ほど」
「宮殿の制圧と同時に公子適の屋敷を囲み動けないようにしてくれ」
 天に叛くのかと言った公子の言葉とは裏腹に、公子亹の心はすでに君主の座についている己の姿に魅了され、瞳から怪しげな光を放っていた。管亮は公子の目を見返すことが出来ずに公子の言葉を聞いていた。
 
 それから5日後、許駿が一人汗と埃にまみれて公子亹の食邑の調査から戻って来た。
「公子亹様の邑は帝丘から歩いて三日のところにあります。邑では国境の守りに兵士が必要であると触れて大掛かりに兵を集めておりました。すでに1師ほどの兵は集めたのではないでしょうか。念の為に超耳を邑に残しておきました」
 許駿は井戸脇で汗と埃に汚れた体を流すと、すぐに呉起と蔡信に報告した。
兵の単位は5人を伍として、5伍で25人を1両、4両で100人を1卒、5卒で500人を1旅、5旅2500人を1師、5師12500人を1軍としている。
「噂は本当であったのか」
 蔡信は許駿の報告を聞くと驚いたように言った。呉起は許駿の報告を聞くと何もいわず考え込んだ。
「1師もの兵士を集めて、やはり公子適様の屋敷を襲うのだろうか」
 考えこんでいる呉起に、蔡信は自分の思いついた事をさらに言った。
「多すぎるのだ。公子適様を襲うのであれば1旅も兵士がいればたりるだろう。公子亹様は何を企んでいるのだ」
 公子適邸の警護の兵が少ないのは衛では周知の事実である。たぶん屋敷の警備は百名程度のものではないだろうか。それに対し2500名もの兵士を用意するとは慎重すぎはしないか。自分達は公子適様のことばかり考えていて何か大きな事を見落としているのではないだろうかと呉起は考えていた。しかしいくら考えても心にひっかかるものが何かわからなかった。
「いずれにしても早速、高遠殿に報告しなければなるまい」
 呉起はそう言うと蔡信を伴って公子適の屋敷を訪れた。
「そうか。わざわざ調べてくれたのか。実は昨日の事なのだが、斉の軍隊が国境を侵しているとの連絡が入ったのだ。宮殿では急ぎ対策を講じて、公子亹様自らが集められるだけの正規兵を従えて斉との国境に向かった。その時に自邑からも兵士を従えて向かうと言う話であった。あの時公子適様に迂闊な事を申すなと言われた通りになってしまった。呉起殿には申し訳ない事をした」
 高遠は自分の言葉を信じて、公子亹の食邑まで人をやって調べてくれた呉起に、面目なさそうに言った。
「そうでしたか。我々の心配が杞憂に終わればそれにこした事はありません」
 呉起は頭を下げようとする高遠を手で留めて、さらに言った。
「しかし、おかしな事もあるものですね。公子亹様はかなり前から国境の争いの為に兵士を集めていたそうです。どうして昨日報告があったことが、公子亹様には事前に知っておられたのでしょうか」
「確かにそう言われればおかしな事だな。1師もの兵士を集めるとすれば相当な金が必要となるだろう。こう言ってはなんだが、昭公の華美な生活の為に常備兵の数まで減らしているとの事だ」
 高遠は呉起にそう言われて頭をひねった。
兵を集めるには武器やその他の装備を集める為、膨大な資金が必要となる。「管子」によると戦車1台に馬4頭。馬1頭に兵士7名と御者5名がつく。従って戦車1台に兵士28名御者20名そして軍夫30名がつくのが基準だと書いてある。戦車1台に78名の兵士軍夫がつくことになり、2500名だと約30台の戦車の編成となる。六里四方を一単位として戦車一乗(台)を供出させていた。(中国の一里は約400メートル)衛の国の有力な卿大夫でも平時からこれほど多くの兵士や装備を集められる者は限られていた。
「もしこの屋敷が襲われた場合、公子適様はどうなさいますか」
「この屋敷は塀は低く防備に適していない、それに警護の兵は百人にも満たない。やはり領地のある邑に逃げるしかないだろうな」
 高遠は顎髭を触りながら、しばらく考えて言った。
「何か嫌な予感がします。いずれにしても退路を確保しておいたほうが良いでしょう」
 呉起はそう言うと高遠の部屋を出た。公子適は国境の争いもあり宮殿に出仕していた。呉起は公子亹が兵士を従えて国境に向かったと聞いても、どこかすっきりとしなかった。呉起の脳裏には手繰り寄せることのできないいくつもの糸が結び、付けられないまま風に靡いていた。

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# by shou20031 | 2005-01-24 21:12 | 中国歴史小説


小説を載せてみたけれど反応が薄いな~

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 今回中国の兵法家「呉子」の若き日を描いてみました。全20話くらいの話のうちまだ第2話までしか載せていないのですが、中国歴史小説は読みにくいのでしょうか、コメント一つ付かないのが残念です。
 
 この小説は伴野朗さんの「呉子起つ」の青春版だと思ってくれれば良いのですが。やはり名前を覚えるのが面倒なのと、文章が拙いせいでしょうか訪問数も少ないですね。
 
  このあとは春秋時代の兵法家「司馬穣苴」を掲載しようか、斉の宦官であった「夙沙衛」を載せようか迷っています。いずれにせよ堅苦しい小説はなかなか読んで貰えそうにないのかな?諦めずに宮城谷昌光さんを目指してがんばります。もし目に触れたらなら皆様の気軽なコメント期待しております。
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# by shou20031 | 2005-01-23 23:17 | その時思う事


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.2 帝丘の掃除

 蔡信は呉起との喧嘩に負けて以来、常に呉起の後ろに控えるようになった。二人で歩くと蔡信は呉起より頭ひとつ分大きかった。小男で帝丘一の秀才と大男で帝丘一悪童が一緒に歩く奇妙な姿が見られるようになった。
 蔡信は呉起の剣術の練習の激しさを見て言葉を失った。小男の呉起の打ち下ろす剣が蔡信の剣を弾き飛ばし、激しい痺れだけが残った。蔡信は呉起を殴り倒したのではなく、見事に殴らされていた事に気が付いた。その日から蔡信は呉起が習っていた剣術の師匠に学んだ。自分がただの力まかせに喧嘩をしていたことに気づいたからであった。そして、時間があれば呉起のもとで文字を学び始めた。呉起の教え方がうまいのか、蔡信は学問というものが面白いものであることに驚いていた。帝丘の街で強請りたかりの悪行を繰り返していたのが嘘のようであった。自分のように学問にも武術にも触れることなく、悪行を繰り返している昔の仲間のことを思い出していた。庶人はその日を必死に生きて行くだけで学ぶ余裕などなく、士大夫と呼ばれた貴族のみが射(弓)、御(馬の御し方)、詩(詩作)、楽(音楽)、書(文字)、史(礼と歴史)、易(占い)を学び国政に参加することが出来た。

「弟分の許駿(きょしゅん)と言うのだが、俺が文字を習っていると聞いてこいつが教えて欲しいと尋ねて来たのだ。この男にも文字を教えて貰えないだろうか」
 蔡信にしては珍しく嬉しそうな顔をして若い男を一人連れてきた。蔡信よりも背が高いが痩せていた。
「許駿は文字を覚えてどうするのだ」
 呉起は許駿の精悍な顔立ちを見て尋ねた。
「学問というものをしてみたいのだ。俺は流民の倅で耕す畑もなく、盗みや強請でその日を過ごしている。蔡信から学問をすれば努力しだいで士大夫にもなれると聞いた。ぜひ俺にも文字を教えて欲しい」
「文字を習うのは退屈だが、我慢できるか」
「俺にとって文字を学ぶことは玉壁を扱うようだ。一つ学べば俺の心の中に一つの玉が生まれる。文字を学ぶ事は俺の心の中に限りない夢の扉を開くのだ。俺のような貧しい者が学べると言う幸せがあなたにわかろうか」
 許駿はそう言うと呉起の前に跪(ひざまづ)いた。この頃、貴族以外では、呉起のような裕福な者を除けば、庶人が文字を習う事もなく、必要もなかった。許駿がどんな思いで文字を習おうとしているのか呉起に伝わった。(国によって文字の字体が異なっていて煩雑で、文字が統一されるのは二百年後の秦の始皇帝の登場まで待たねばならない)

「私が悪かった。どうか立ち上がってくれ」
 呉起はそう言うと許駿の手を取って立ち上がらせた。
「許駿は馬よりも足が速い。馬はしばらく走らせれば休ませねばならないが、許駿は一晩中でも走り通せる。こいつに文字を教えれば、おまえの将来に必ず役に立つと思う」
 それまで黙っていた蔡信が立ち上がった許駿の肩を叩いて言った。
「文字を学ぶことがそれほどの喜びであれば、私はだれにでも教えよう」
「俺に教えてくれるのか」
「ああ。学びたい者があれば誰にでも教えよう。蔡信よ。他にも学びたい者がいたら気軽に連れて来てくれ、皆で一緒に学ぼう」
 蔡信が文字を教えてくれと言った時には驚かなかった。蔡信は下級とはいえ役人の子供だった。やがて役人になった時に役立つだろうとしか思っていなかった。
 しかし流民の許駿が文字を学んだところで、今すぐに食べ物が手に入るわけでも、生活が変わるわけでもなかった。ただ、流民として苦しい生活の中で、働く時間を削ってまで、文字を学ぶ事で、夢を見ようとすることに驚かされていた。呉起は教える事によってこれから自分に必要な人間を集めてみようと考えた。
 あの日蔡信が帰り道に待ち伏せいなければ呉起は、何不自由ない生活に疑問を抱くこともなく、学問と剣術に明け暮れる日々を過ごしていたのだ。ただ蔡信と出会った瞬間、自分の運命はこの男によって切り開かれて行く気がしてあえて殴られた。まるで呉起の気持ちを試すように蔡信は呉起を殴り倒した。そして三日目呉起は自分の才覚でこの乱世の時代を生きてゆく覚悟をした。
 
 やがて蔡信は、遠く離れた人の顔を誰よりも早く見分けられ、どんな人間の懐からも財布を掏れると言う郭犀(かくさい)。隣の部屋で針の落ちる音まで聞き分けられるという早耳の超耳(ちょうじ)。船を操る事にかけては河水一と豪語する華元(かげん)。石を投げれば飛ぶ鳥を二羽同時に打ち落とすことが出来ると言う李克(りこく)などが連れてきた。それまでの悪行から足を洗い呉起の前に机を並べるようになった。
 ところが、一度踏み入れた悪行の世界からはそう簡単に身を引くことが出来ないらしく、呉起と蔡信が二人で歩いていると突然やくざが呼び止めた。
「蔡信よ。この頃わしらの所に顔を出さないでいると思ったら、そこのお坊ちゃまの荷物持ちをしてるんだって、帝丘一の悪童が聞いて呆れるな」
  呉起達より年は二、三歳上なのだろうか、それでもやくざにしては若すぎる男が言った。
「あんた達のところにいつまでいても、帝丘のごろつきで終わるのか思ったら、嫌になってね」
 蔡信は自分よりも年上のやくざを見下すように言った。
「ほう。俺達の事をごろつきだとよ。今まで世話になっておきながら随分な言い草だな」
 初めから喧嘩を仕掛けるつもりだったのだろう、後ろにいる仲間に薄気味のわるい笑いを浮かべて言った。それが合図だったのだろうか2,3名のやくざが蔡信の後ろに回った。
「いい大人が子供相手に喧嘩かい。悲しい事に、ごろつきは恥というものを知らないらしいな」
 街行く人々が何事か起きたのか集まり出した。蔡信はわざと大声で言うと、さらに人々が集まりだした。集まりだした人々の後ろで許駿と郭犀が大声でやくざを囃し立て、李克が石を投げた。
「いてえ。誰だ。石を投げる野郎は」
 やくざが頭を押さえて言った。李克は人の後ろに隠れて巧に石を投げた。
「やめろ。この野郎」
 やくざの一人が腰にしていた剣を抜いた。野次馬が驚いて一歩足を引くと、やくざを非難した。
「大人げないぞ」
 蔡信がやくざに向かって踏み出すと言った。
「このままで済むとは思うなよ」
 多くの人々の非難の声に、具合が悪いと思ったのか、一番年嵩のやくざが仲間に剣を引くように目配せをして去って行った。
「このままですみそうもないな」
 呉起はやくざの言葉に動じる風もなく蔡信に言った。
「迷惑をかけるかもしれないな」
 蔡信はかつての自分の悪行を恥じるように言った。
「いや、いずれにしろ帝丘の街にはいらぬごろつきだ。もともと官が取り締まらぬから、あのような者たちが大きな顔をする」
 呉起はいずれ争わねばならない帝丘のやくざに対抗するため蔡信にいくつかの策を伝えた。蔡信は呉起の言葉に頷くと、帝丘の街に消えた。
 自分とおなじように夢を見つけられずに悪行を繰り返している悪童達に蔡信は話しかけた。繰り返される戦乱により耕す土地を奪われた人々が、流民となって城壁のある帝丘の街に流れ込んでいた。多くの流民はその日の食べ者にも困り、生きてゆく為に泥棒や強盗などを繰り返していた。もともと帝丘にいたやくざはそんな流民達の弱みにつけ込む形で力を大きくしていた。やくざは裕福な家を脅したり、美しい娘を奪ったりしながらも、役人に捕らわれないように、帝丘の官僚や有力者に賄賂を送り結びついていた。
 蔡信は悪童仲間に声を掛けて、これまでやくざが行った悪行を細かく調べ上げた。やくざの仕返しが怖いのかほとんどの被害者が帝丘の役人にも届けず泣き寝入りしていた。

 呉起の家に帝丘中の悪童が出入りするようになり、家人が怯えたので、呉起の母は夫の呉勝に相談した。
「あれなりに、考える事があるのだろう。確かに呉起を訪れる者達の人相は悪いが、出会えば、きちんと挨拶しておる。怯えることもあるまい」
「でも、あの者達が何か悪さをしたら、この家が咎められます」
 呉起の母は不安そうに言った。
「あの者達の目を見たが、わしにはとても悪さを企んでいるとは思えん。それに、この頃、公子適様の家人が呉起のもとをしばしば訪れておるのだ。何か理由があるのではないだろうか」
「一体何を考えているのでしょうか」
 呉起の母はそれでも不安そうに尋ねた。
「詳しい事は分からないが、どうも、帝丘の街に自警団を作ろうとしているらしい」
 両親が呉起の事を心配して話し合っていた頃、離れでは呉起と蔡信が話しをしていた。
「20人とは思ったより集まったな」
「皆悪童とは言っても、いつまでも強請り、たかりをしていられるとは思っていない。出来ればまともな仕事につきたいと思っている者がほとんどなんだ」
 帝丘の街に流れ込んだ流民達の若者は、まともな仕事がないから、悪行をしているだけであった。呉起はやくざを帝丘の街から追い出すために、止むを得ずやくざの手足となって悪童を集め、街の自警団を作る事考えた。呉起はやくざの被害にあっている商人や金持ちを説いて費用を負担させ、父親の呉勝に頼み自警団の住む小屋を借りる許しを得た。
「まずは、街の人々が彼等を見て安心するような小奇麗な服装に改めさせて、常に五人で街を見回るようにしてくれ」
 呉起は父親に頼んで貸してもらった金を蔡信に渡した。
「やくざに喧嘩を仕掛けられたらどうする」
「公子適様の命令で見廻っていると言えば、しばらくは手出しをしないだろう」

 以前から昭公の弟、公子適より帝丘の治安の悪さをなんとか出来ないものか相談されていた。河水(黄河)の要衝の地に築かれていた小さな帝丘の街は流れ込む流民を取り込んで街が大きくなって来た。流民の多さとやくざの台頭により、帝丘の役人では治安を守れなくなっていた。呉起は蔡信の言葉から、悪童達を帝丘の治安を守る事を考えて、公子適に自警団を作ることを相談した。公子適は呉起の毒をもって毒を制する案を面白がり、公子適家の家人と言う事を許し、彼等が働きやすくした。さらに街の人々から集めた僅かな金であるが給金が支給される事を聞くと、他の悪童達も集まり、自警団の数は30人を越えるようになった。呉起は蔡信を自警団の団長として、武術を教えて、五人を単位とした分隊を作らせた。

 自警団を作って三月ほど後、陳平(ちんぺい)というやくざの親分から呉起と話がしたいと申し出があった。陳平は帝丘の街の暗い世界を支配する男で、これまで街の役人も手出し出来なかった。自警団の仲間は呉起の身を心配して皆で警護して行くと言ったが、公子適へ手紙を書くと許駿に持たせた。
 呉起は蔡信だけを連れて、陳平が指定した家に向かった。
「あんたが自警団を作った呉起さんかい」
 陳平が言った。とてもやくざとは思えないほど人の良い笑顔を浮かべていた。しかし実際の陳平は目をそむけたくなるほど残忍な人間だった。
「自警団は公子適様の思し召しにより、出来た集団です」
「公子適様の家人とか言って歩いてるそうじゃないか。迷惑してるんだよ。そろそろ遊びは止めてもらいたいんだがな」
 陳平は自分達の邪魔になっている自警団を作った男が、思っていたよりも小さい男だったのに驚いた。自分達でさえ手こずるような、一癖も二癖もある悪童達を30人も集め自警団を組織して、街の人間にその費用を負担させ、さらには公子適家の家人として、やくざが手出しを出来ないようにした驚くべき手腕だった。
「随分と生活し易くなったと街の人々には歓迎されています」
「どうも優しく話していても埒が明かないみたいだな。若い奴らは血の気が多いんでね、いつまでも抑え切れないんだよ」
「陳平さん。やくざを辞めませんか。いつまでも街の嫌われ者でもしょうがないでしょう。あなただったら立派に百人隊長ぐらいにはなれます」
「随分と煽てるじゃねえか。悪いが今日は俺の身の上相談じゃねえんだ。このままだったらあんたの仲間から死人が出てもしらねえぜ」
  それまで穏やかに笑っていた陳平の目が彼の本性である残忍な色を帯びていた。
「出来れば血が流れるような事は避けたいですね」
  呉起はそんな凄みを帯びた陳平の目を平然と見返していた。
「だったら俺達の邪魔は止めてもらえないか」
「陳平さん。それは無理だ。街の人達はあなた達に街から出て行って欲しいから、自警団に金を出しているのです。今私があなたと手打ちをしたら私がこの街から追い出されてしまいます」
  呉起は窓の外で人が動く音に気が付いた
「どうしても、俺達の邪魔をするつもりなのか」
  陳平は目の前この小男をどうしても殺さなければならないと思った。いや。今殺さねば必ず自分が殺されるという動物的な勘であった。
「我々から怪我人が出たら、公子適様を敵にすることになります。あなたがいくら役人と繋がりがあっても、今度は誰もあなたを守ろうなんてしません。今だったら、公子家の私兵として雇っても良いと言っているのです。それとも城門に晒し首になるのか、じっくり考えたほうが良いと思いますよ」
「どうも頭の良いおぼちゃまと話していると、長くなってしょうがねえ。面倒臭えからやっちまえ」
 陳平の言葉に答えるように、部屋の奥から七、八人ほど手下が走り出て来て、呉起と蔡信に剣を突き付けた。
「陳平さん。その前に窓の外を見てくれませんか」
 呉起は剣に怯むこともなく平然と言った。呉起の言葉にやくざの一人が窓の扉を開けた。いつの間にか、公子適家の旗を持った兵隊が百人以上で家の周囲を囲んでいた。呉起が手を上げると兵士達が一斉に剣を抜き放ち、太陽の光を受けて抜き放たれた剣が光輝いた。
「陳平さん。公子適家の兵士になるか、晒し首になるか。どちらを選ぶか仲間に相談したほうがいいでしょう」
 すでに戦意を喪失している陳平の子分達を見て呉起は言った。
「死ぬのが怖くてやくざをやってられるかよ」
 陳平は大声で叫ぶと呉起の頭上に剣を振り下ろした。蔡信は自ら呉起の前に盾となって立つと、陳平の剣を軽々と打ち払った。さらにやくざの一人が蔡信に向かって剣を突き出した。蔡信は返す剣でやくざの腕を切った。呉起は卓の上に駆け上がってやくざの脛を剣の腹で打った。狭い部屋の中は打ち合う金属音と、公子適家の兵士の怒号に満ちた。
「皆殺しになりたいのか」
 蔡信がやくざの剣を打ち落とし、彼等を部屋の隅に追い詰めて叫んだ。圧倒的な数の兵士の前にやくざ達は剣を投げ出した。床に二人やくざが血を流して倒れていた。
「子分を捨てて陳平は逃げたようだ」
 蔡信は血の付いた剣を見て言った。初めて人を切った感覚がいつまでも手に残っていた。
「どうやら大物を取り逃がしてしまったようだ」
 公子適家の警護隊長の高遠が呉起の姿を見つけると剣を収めて言った。
「後で何かの災いとならなければよいですが」
 呉起は、陳平一人では何も出来ないとは思うが、心の片隅にいやな思いが残った。
「取り敢えず帝丘の街の掃除はできたわけだ」
 高遠は部下の兵隊に倒れているやくざを手当てして宿舎に連れて戻るように命じた。
「公子適様から呉起殿をぜひとも屋敷にお連れするようにと言われております」
「私の方こそ公子適様には今日のお礼を申し上げなければなりません」

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# by shou20031 | 2005-01-23 15:51 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子 Vol.1 運命の出会い

 男と呼ぶにはまだ幼さを残した若者達が大声を出して争っていた。
河水(黄河)へ注ぐ支流の川原で口から血を滲ませた小さな男が、体の大きな男の上に馬乗りとなっていた。
「これは、一日目の分だ」
 端正な顔立ちの男は左手で体の大きな男の襟元を掴むと、右拳を振り上げて殴った。
「そして、これは二日目の分」
 もう一度右手を振り上げて殴ろうとした時、体を揺さぶるほどの地鳴りがして対岸の荒野に土煙がもうもうと立っていた。やがて数え切れない旗と兵士が現れた。先頭を鮮やかな甲冑に身を纏った兵士が乗る戦車が走っていた。
「これから戦でもあるのか」
 馬乗りになっていた男は殴るのも忘れ、馬に引かれた戦車に目を奪われて立ち上がった。
「公子の使節が趙から帰って来たのだ」
「使いだけなのにこんなに多くの兵隊が付いてゆくのか」
「公族の使節だからな。国の体裁もあるのだろう」
 組み敷かれていた男が鼻血を拭いながら殴っていた男の脇に立った。頭一つ分ほど背が高かった。
「俺はいつか、あんな軍隊を従えるような将軍になりたい」
「将軍というのは、俺みたいに体が大きくて強い奴がなるんだ。おまえのように体の小さい奴は文字でも書いておればいいんだ」
「体がでかくても、知恵の働かない奴はいつまでも後ろを走る兵隊だ」
 二人は言い争いながらも、それまで見たこともないほど煌びやかな軍隊の移動を見つめていた。青臭い夏草の匂いがいつまでも二人の鼻についた。

 馬乗りになって殴っていた男の名前は呉起、後に孫子と並び称される兵法の天才「呉子」であった。呉子は衛の国の都帝丘(ていきゅう)に生まれ、やがて魯、魏、楚の将軍となる。
「史記」の孫子呉子列伝には亡くなった年は紀元前381年だと書かれているのだが、同じ「史記」の魏世家では紀元前378年に呉起が魏の将軍として斉を攻めている。司馬遷もいささか混乱していたのだろうか。生まれた年も何歳で亡くなったのかもわかっていない。生まれたのはおよそ紀元前440年頃ではないかと思われる。孔子が亡くなっておよそ40年後、秦が中国で最初の統一王朝となる220年以上前の春秋時代末期の話である。 
 魏の将軍の時、西河の太守として、諸侯と戦う事76戦してなんと64勝した。8割6分という驚異的な勝率を誇った。さらに驚く事は残りの12戦は互角で、一度も負けたことが無いと言われている。まさに戦争の天才であった。がそれはこれより後の姿で、まだその片鱗もない。
 
 呉起は衛の都の帝丘に生まれた。父は帝丘でも裕福な資産家であった。呉起は孔子の広めた儒学を教える学塾に学ぶと幼くして、その秀才を謳われた。その噂を聞きつけた昭公の弟の公子適は呉起をしばしば招いた。呉起の身長は160センチの小男であったが野心を胸に秘めた眉目秀麗な優しい顔立ちをしていた。武将となる為には重い武器を自由に操れる大きな体が必要だった。呉起は己の小さな体をカバーできる大男を探していた。
 ある日帝丘一と言われた悪童の蔡信(さいしん)が呉起の噂を聞きつけ、呉起の帰り道で待ち伏せしていた。呉起は道を塞いでいる蔡信に気が付いたが、そのまま真正面から蔡信に向かって歩いて行った。
「お前が呉起か」
 蔡信はそう言うといきなり呉起を殴り倒した。
「どう言う理由があって私を殴ったのだ」
 呉起は殴り倒された後、不用意に立ち上がらず下から睨み返して言った。
「帝丘一の秀才だと聞いたので、どれほどの男かと試してみたかったのだ。男として秀才が上か俺の力が上か」
 蔡信はそう言うと、睨んでいる呉起の顔も見ずに高笑いをして去った。
翌日も蔡信は呉起の帰りを待っていた。呉起も逃げもせずに真正面から蔡信に向かって歩いて行った。蔡信は昨日と同じように呉起を殴り倒した。
「呉起よ、秀才も悪童の前ではその程度のものか」
 蔡信は殴り倒した呉起を見ると言った。
「蔡信よ。力に驕る者は力に泣くぞ」
呉起は笑みを堪えて、口から血を吐き出すと言った。
「明日が楽しみだな」
 蔡信は昨日と同じように高笑いをしながら、悠然と歩き去った。蔡信はその時、呉起が不敵な笑いを浮かべている事に気が付かなかった。
 三日目蔡信は同じ場所で待っていた。やがていつもと同じ時間に呉起がやって来た。呉起は殴られて痣になった顔で怯む様子も見せずに蔡信に向かって歩いて来た。
「わしを恐れずに、よく道を変えなかったな」
 蔡信は嬉しそうに言った。
「蔡信よ。力に驕るものは、力に泣くと言ったはずだ」
 呉起はそう言うと懐から短い棒を取り出した。
「なんのつもりでそんな棒を出したか知らないが、かえって怪我が大きくなっても知らぬぞ」
 蔡信はあざ笑うように言うと呉起に覆い被さるように殴りかかった。蔡信の拳が僅かに呉起の口を切ると、呉起は自分から蔡信の足元に飛び込み、彼の脛を棒で力一杯に叩いた。蔡信はあまりの激痛に脛を抱えて蹲った。呉起は蔡信の顔を思い切り殴り倒し、馬乗りになった。呉起はこの瞬間、新たな世界を切り開いて行くのに必要な男を手に入れた事を確信した。

「これは、一日目の分だ」
 蔡信は呉起に殴られてむしろどこか安堵したような顔をしていた。蔡信は帝丘の下級役人の息子で身長190センチ体重は100キロを越えて、帝丘一の悪童と言われた。親父の仕事を継いでもしがない下っ端役人にしかなれないと、自分の腕力に物を言わせて帝丘中の悪童に恐れられたが、繰り返す悪行の日々、蔡信は己が求めている物からどんどん離れて行くような苦しみを感じていた。やがて帝丘一秀才と噂される呉起の名を聞いた時、悪行の世界から救い出してくれるのはこの男ではないかと、自分の人生を賭けてみることにした。殴り倒された瞬間に、蔡信はどんな事があっても呉起について行く決心をした。

 呉起の生まれた衛の国は名門国家である。周代の周公の弟、康叔(こうしゅく)を祖とする。その後一時は栄えるが、公族が継承問題による内乱を繰り返して国力は衰退する。そして北方の異民族の侵略を受け衛と言う国は一度滅んでしまう。斉の桓公の尽力により、文公の時、楚丘に城を築き衛を再興することができた。その子成公は帝丘に都を移したが、昔の衛の国には及ぶべくもなかった。
当時、中国は周王室の力が衰え、有力な十三諸侯(魯、斉、晋、秦、楚、宋、衛、陳、蔡、曹、鄭、燕、呉)が政治力を持って台頭してくる。ただし王号を称えることが出来るのは周王のみであり、諸侯は爵位を周王より与えられていて。王の下に公、侯、伯、子、男の爵位があった。諸侯として認められるのは公爵もしくは侯爵までで、魯公、蔡侯と呼ばれた。
 この年紀元前425年衛はまたもや骨肉の争いを繰り返す事になる。
呉起と蔡信が見た隊列は、衛の太子である公子亹(び)が隣国趙から戻って来た使節であった。このとき衛は昭公の六年、衛は弱小国家として晋(紀元前403年晋は魏、韓、趙に分かれ、それぞれが諸侯と認められる)の趙に兄事しており、ことあるごとに使節を送り、趙のご機嫌を伺っていた。

 「父上は叔父上と何を相談されているのだ」
公子亹は趙から戻るとただちに宮殿に向かい使節の報告を行った。報告を受ける昭公の脇に叔父である公子適(てき)が穏やかな微笑みを浮かべて控えていた。昭公は骨肉の争いを続ける衛の公族には珍しく、年の離れた弟の公子適の才能を愛し、弱小国家の運営を相談していた。華美な生活に溺れ、政治を省みない昭公を実質的に支えているのは公子適であった。
 しかし、国政に関与しながらも、怠惰な兄である昭公を敬い、己の利権や財産を増やそうとしない公子適の清廉さの評判は高く、士大夫の間では次の君主として公子適を押す声も強かった。
 衛の国は、伝統的に君主は政治を省みようとはせず、士大夫は己の利権に固執する気質が強かった。かの孔子がこの国を訪れた時、棒禄は与えるが、孔子の理想を実践する機会を与えられず、一年後にこの国を後にしている。孔子は弟子の子羔と子路を衛の国に残すが、公室の争いに巻き込まれて子路を亡くした。
 さらに昭公はお気に入りの妃の生んだ公子を太子にしたいと言う話までまことしやかに噂されていた。
「私は太子だ。父上は何故私に相談してくれないのだ」
 公子亹は、家宰である管亮に怒りをぶつけた。亹は多くの公子の中では頭脳明晰で才能も豊かであったが、母が趙から来た公女であるため、気位が高く、異常に猜疑心が強かった。そのため相手を見下した話し方をするので、昭公にも気にいられていず、衛の国の政治を行っている卿大夫達にも人気がなかった。家宰の管亮(かんりょう)にとって太子の人気のないのが頭痛の種であった。
「危険な芽は早いうちに取り除かなければなりません。あの清廉そうな公子適様も、心の中では何を考えているかわかりませんぞ」
 家宰の管亮は傳(教育係)として幼い頃から公子亹に近侍していた。
「それはどう言うことだ」。
「昭公の信頼を良いことに、いずれ太子のことを陥れるかもしれませぬ。愚かな士大夫の中には国政を省みないお父上を廃し、公子適様を君主にと広言している者も少なくないのです」
 士大夫達のように衛の国を想えば公子適が次の君主に相応しいと思うが、管亮は公子亹が君主になれば宰相の地位が手に入るのである。国のことなど爪の先ほども想うことはなかった。
「管亮よ。わしはこの国の君主に相応しくないのか」
「太子よ。案ずるには及びません。兵を養い武器を調えて、あらゆる事に備えておけばよろしいのです」
 管亮は公子亹の傳になって以来、己が宰相になることだけを夢見て来た。ここで太子に君主となることを諦められたら、今までの苦労が元も子もなくなってしまう。
「趙襄子様のお体の具合が良くないのだ」
 公子亹は趙の宮殿で拝謁した趙の君主趙襄子の様子を伝えた。趙襄子は在位33年すでに高齢に達しており、体調が悪いためか、拝謁時間が極めて短く、趙襄子の顔色のどす黒く精気がないのが印象的だった。
「急がねばなりません。趙襄子様あって衛の太子でいられるのです。衛の国の兵権を何としても握らなければなりません」
 太子亹の母は趙襄子の娘であった。趙襄子の後ろ盾があって亹は太子になれた。
「しかし父上御自身が公子適を次の君主に指名したらどうするのだ」
「太子よ。あなたはこの国の君主になるべく生まれてこられたのです。太子ご自身が君主になろうとしても誰も阻みはいたしません」
「どう言う事だ」
「ご自身で君主になろうとすることです」
 管亮は声を潜めて公子亹に耳打ちした。
「私に天に叛けと言うのか」
 公子亹は管亮が耳元で呟いた言葉に驚いて問い返した。管亮の目が怪しいほどに輝いていることに公子亹は背筋が寒くなっていた。
「公子適様を討っても、太子が清廉である適様の人気を妬まれて討ったと思われるだけです。また昭公がお怒りになって亹様を太子から廃するかもしれません。国政を省みず、華美に溺れている昭公様を諌め、聴きいれられない為、止むを得ず弑いたとすれば、太子が君主となるのを誰が阻めましょうか」
 公子亹の顔は、管亮の言葉を聞いてもなお暗い顔をしていた。むしろその沈痛さゆえに、公子亹は己が君主となる為に、昭公を弑いる事を真剣に考えていることを管亮に感じさせた。
 それから公子亹は多くの士大夫などのいる前を選んで、昭公に華美な生活を慎むよう涙を流しながら諌めた。やがて度重なる公子亹の昭公を思う諫言に士大夫の中に公子亹を誉め、昭公を責める声が出てきた。
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# by shou20031 | 2005-01-22 17:55 | 中国歴史小説

    

永遠の愛ってあるのだろうか
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