中国歴史小説と幻想的な恋の話


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悪童日記 アゴタ・クリストフ

c0039644_222211.jpg悪童日記 アゴタ・クリストフ
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誰のブログで紹介されたのを見たのか覚えていないのです。検索したけど思い出せませんでした。
取り敢えず作者の紹介:ハンガリー生まれの亡命作家が書いた小説です。架空の時代と場所ではあるけれど読者は第二次世界大戦下のドイツの状況を思い浮かべる書き方でした。
戦争の状況下双子の男の子がお婆さんに預けられるて、そこで逞しく生きて行く姿を書いてあります。
戦争と言う異常な状況の下で人間がどう変わって行くのか、善とか悪とかの倫理感でさえ極限の状況下でどう変わって行くのか、とてもクールな目で書いてありました。
これは決して子供向けの本ではありません。

多分極めて正しい倫理感を持っている人間にとっては醜悪な本かもしれない。とってもシュールな本です。私はがつんと鉄槌をくらったような気がしてとても気に入りました。

戦争が終わって開放されたにもかかわらず思想言論の統制を受け戦時中以上の恐怖を味わうのです。最後の1ページに打ちのめされます。いや最後の一行かもしれません全文を読まない限りその意味が解らないでしょうし、ハンガリー動乱の中,祖国に親しい人を置いて亡命した作者だからこそ書けた一行なのかもしれません。

アゴタ・クリストフの三部作といわれる「ふたりの証拠」や「第三の嘘」も読んでみたくなりました。
乱読さん読んでなければ乱読さんの感想を知りたい本です。
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by shou20031 | 2005-05-31 21:02 |


チョコレート工場の秘密

c0039644_17433597.jpgチョコレート工場の秘密  ロアルド・ダール
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rainy_lunaさんからアメリカで今回ティム・バートン監督が映画化すると言う話を聞いて読んでみました。1971年にも映画化になったそうです。原作者を勘違いしていてご迷惑をかけました。

この本は良い子には良い事があると言う子供向けの本なのですが、どう言うわけか大人の読者が多いらしい。以前読んだチョコレート・アンダーグラウンドとはかなり違うテイストでした。

秘密に包まれた世界一のチョコレート工場のオーナーであるウィリー・ワンカ氏が五人の子供をチョコレート工場に招待する話です。

話の展開は単純なのですが、私にとって印象的だったのは、”利口な人間はわんさといる。大人は私の言うことを聞かない。学ぼうとしない。自分のやり方でやろうとする。だから子供じゃなくてはいけない”でした。

この言葉をどう受け取るかは人によってそれぞれだと思います。全くそうだ思う人もいるとおもいますが、私には一代で芸や技を打ち立てた職人の言葉ではないかと思いました。自分の学んだ技術や技をただ伝えたいだけなのでしょうか?大人の思った通りにする子供だけが欲しかったのでしょうか?
でもそれは大人として子供に対して良いことなのでしょうか?

ロアルド・ダールの言いたかったことは、たぶんそんなことではなかったと思います。私はこの本を読んで作者の伝えたかった事読み取れなかったのが残念です。

もしこれが大人にとっての良い子の定規だとするのであればちょっと寒気を感じます。私も自分の子供を大人の都合の良いように育ててしまったではないかと悩みます。

ロアルド・ダールの言いたかった事は何だったのだろう?
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by shou20031 | 2005-05-30 20:29 |


人を育てる名人絵師 歌川豊国

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名伯楽 初代歌川豊国(1769-1825)


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写楽や北斎と同世代のため、現代では影が薄くなってしまっているが、たぶん江戸時代当時では一番人気があったであろう役者絵師。
江戸の芝神明に住む人形師の息子として生まれる。歌川派の開祖豊春に弟子入りして豊国の号を用いるようになる。 デビュー作は十九歳の時で黄表紙の挿絵。役者絵」で26歳の若さで一躍人気絵師となる。やがて独自のスタイルの美人画も描き始める。
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時代が求めるものを見極める目があった。大衆の望む作品を手がけ、常に人気を保ち続けた。豊国が挿絵を描くと本の売り上げが変わため、豊国に挿絵を頼む版元が後を絶たなかった。門人も多く、最盛時には40人を越す弟子がいた。なんとあの広重も入門を希望したが断られたと言われている。
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寛政の取り締まりの時、豊国も歌麿とおなじように50日の手鎖の刑に服している。
幕末の浮世絵師の多くが歌川派であったのは豊国の功績である。豊国の系譜は明治まで続いていることから考えれば、人を教育する面においても優秀な人であった。

写楽 = 豊国であると言う人もいる。同じ役者絵を描いていたからであろうか。それが真実かどうかは疑わしいけれど、想像してみるのも楽しいものである。
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by shou20031 | 2005-05-28 21:33 | 芸術


再 会

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ルノアール
再 会

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聞いた覚えがある声だと思ったのよ
振り返ったとたんに、
あなたの姿が目に飛び込んで来たわ
懐かしさどころか、本当は泣きそうだったの
十年振りだもの、会いたかったの
でもね、あの日あなたの好きな髪を切ったのよ

愛しいあなたの匂い、どんなに時間が流れても、
いまでも忘れはしない。

強情を張っていたのは私だから
あなたの事を責めるつもりはないわ
今になってみればささいな事
笑ってすませられるけれど
私達は愛し合うにはまだ若すぎたのよ
今日はあなたの目が優しくて眩しい

あの娘(こ)が今の彼女なのね、相変わらず
長い髪が好きで安心したわ
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by shou20031 | 2005-05-27 22:55 |


狩野芳崖と橋本雅邦

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狩野芳崖(1828-1888)と橋本雅邦(1835-1908)に友情を想う
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狩野芳崖。長府藩の御用絵師狩野晴皐の長男として下関に生まれる。父に絵の手ほどきをうけたのち、19歳のころ上京、橋本稚邦と同日(弘化3・1846年4月18日)に奥絵師木挽町狩野の勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、僅か4年で塾頭にまでなった。芳崖の才能は狩野派の絵の領域を飛び出てしまい、雅信に破門されてしまうが、普段物静かな橋本雅邦が師に取りすがるようにして芳崖の破門の許しを請うたと言う。芳崖は七歳年下の雅邦に救われた。それも一度ならずも三度までも、芳崖を破門するならば自分を破門してからにせよと、普段物静かな雅邦は師に迫ったと言う。私はこれほど強い友情に結ばれた二人をただただ羨ましく思う。師の雅信は芳崖を失う事よりも雅邦を失うことを怖れたとも言われる。
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しかし、江戸幕府崩壊・明治維新によっ他の狩野派の絵師と同様に職を失ってしまい、生活苦とたたかうことになる。一時絵筆を捨て国事に尽くすが、貧困のあまり貿易商の下絵書きをしていた。
やがて島津公爵家の庇護をうけ、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。。岡倉天心と共に図画取調所を設ける。美術学校の設立に尽力したが開校前に没する。
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橋本雅邦 武州川越藩のお抱え絵師、橋本養邦の長男。芳崖と同門であった。芳崖が一時山口に帰郷したときには雅信の塾の塾頭となった。
気迫のこもった一作で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された。川合玉堂がこの絵に感動して雅邦に師事した話は有名である。温厚な人柄で東京美術学校では流派にこだわらない自由教育を施し、大観、観山、春草ら、個性ある画家を育てた。芳崖亡き後も天心らとともに日本美術院の創立を果たした。
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by shou20031 | 2005-05-26 22:15 | 芸術


北斎に文句を言った男 鍬形惠斎

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北斎に文句を言った男 鍬形惠斎(1764-1824)
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江戸浜町に生まれる。父は静岡出身で、江戸に出てきて畳屋をしていた。恵斎は、幼い頃から北尾重政の門人となった。十五歳で三二郎の名で描かれた黄表紙の挿絵を描く。
北尾政演(後の山東京伝)・窪俊満などがおり、この三人で北尾派三羽烏と言われた。やがて北尾政美の名を貰い、武者絵、浮絵、鳥瞰図などを描いた。
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寛政六年(1794)に、津山藩松平家のお抱え絵師となり、名前を北尾を改め鍬形恵斎紹真と改めた。やがて狩野惟信のもとで、狩野派の画風を学んだ。
浮世絵師から大名のお抱え絵師になったのは非常に珍しいことであった。

お抱え絵師としての恵斎は、 北斎に先駆けて絵手本類を描くようになる。『略画式』はのちの人物・鳥獣・山水・草花・魚貝など「北斎漫画」の原型となった。恵斎はまた略画以外にも、鳥瞰図である名所図会「江戸一目図屏風」を描いている。北斎の「東海道名所一覧」は惠斎が描いた後である。惠斎は読物に北斎は物真似が上手いと皮肉った。北斎漫画も決して北斎のオリジナルでないと思うと少し興ざめではある。
しかし、武士となっていた惠斎はそれ以上は責めなかった。
惠斎の「近世職人尽絵詞」は肉筆画の傑作と言われている。
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津山藩のお抱え絵師になったが、江戸に在住しており 津山には一度行ったのみである。
武士のしがらみを嫌う鳥文斎栄之のような人物もいるし、下級武士でも武士になりたかった絵師がいたり人の考えは実に様々ですね。
一部福岡大学の画像を借用させていただいております。
                              
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by shou20031 | 2005-05-25 21:04 | 芸術


君を喜ばせる為なら

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ルノワール
君を喜ばせる為なら

目を伏せた、長いまつ毛が震えてる。
僕の不注意な言葉に
君の心が傷ついている
抱きしめても尽くせぬ想いを
いったいどうやって伝えればいいのか
僕には、凍えたその手を、
握り締めるしかできない

詩人のように君を喜ばせる言葉が伝えられるのなら
僕は想いのたけを詩にして毎日送るよ。

テーブルの上の君の白い指先が震えてる
すれ違った昔の恋人、
君の気持ちを疑る僕の言葉。
あの日初めて出会った時から
僕はずっと君を見つめている。
誓うよ。どんな事があろうと、
その小さな手を離したりしない。

画家のように君を喜ばせる絵が描けるのなら
僕は大好きな君を描いて、毎日送るよ
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by shou20031 | 2005-05-23 20:47 |


人の役にたちたかった画家 ビンセント・バン・ゴッホ

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人の役に立ちたかったゴッホ(1853-1890)

ゴッホ展は4月初めに行きましたが、紹介の文を書く気になれなかったのです。

ゴッホに関して何を今更紹介すべきなのだろうか。彼の悲しい生涯に関しては既にもうご存知のことでしょうから。

ゴッホほど人が好きで人の為になろうとして報われなかった画家もいない。

ゴッホは牧師の長男としてオランダ南部の街に生まれる。16歳の時ゴッホはパリの画商に勤める。ゴッホは生涯3度の失恋をしたと言われている。そして最初の失恋をこの時期に経験する。やがて父と同じ牧師になろうとして見習い伝道師となりベルギーの貧しい炭鉱町に赴任するが、ゴッホは牧師になることも叶わなかった。ゴッホはやがて「人の役にたつもの」を描く画家になることを志して32歳にパリに出る。ゴッホは弟のテオの援助を受けることとなる。印象派の画家と交わることでゴッホの絵は明るさをます。しかし酒と女の生活にまみれ、当然の結果としてロートレックと同じように性病も罹病する。
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パリの生活に疲れたゴッホはアルルの明かり太陽を求めて移り住む。ゴッホの傑作はここで生まれるが、もしゴッホがアルルに移住しなければあれほど早く生涯を閉じることはなかったかもしれない。ゴッホとゴーギャンの関係は今更言わなくても良いでしょう。
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ゴッホの絵はサン・レミの診療所に入所したところから見た目にも彼の苦悩を感じることが出来ます。彼の苦悩を目の当りにすると、甘えた環境にいる自分の姿に虚ろになります。
あの絵を見て私は一月以上ゴッホに関して書くことを悩みました。ミヒャエル・エンデの「モモ」が私の気持ちを支えてくれたのかもしれません。
彼ほど人の役にに立とうとした絵を描いた人を私は知らない。1890年ゴッホはピストル自殺をする。弾丸が骨に当り苦痛のまましばらく生きながらえた、急報を聞いて駆けつけた弟テオに看取られて亡くなる。37歳の苦悩の満ちた生涯を閉じた。ゴッホの絵は時空を隔てた現代の私の心に強すぎるノックを送り続けている。
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by shou20031 | 2005-05-22 20:35 | 芸術


雲谷等顔に希薄になった家との関係を考える

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滅んだ名家の復興 雲谷等顔(1547-1618)

肥前国能古見城主・原豊後守直家の次男。原治兵衛直治といった。原家は有馬氏に滅ぼされ、直治は毛利輝元に知行200石で召抱えられた。さらに命じられて模写した山水長巻のできばえを賞された。雪舟ゆかりの雲谷庵の管理を任された。これを機会に姓を雲谷にし、名は雪舟等揚の名から一字をとり、雲谷等顔と名のるようになったと思われる。等顔は茶や連歌の嗜みも深かった。武家としての原家復興を願ったが、絵師として雲谷家の家柄は幕末まで続いた。慶長16年に等顔は法橋に叙せられている。現代に生きる私は希薄になっている自分の家との関係を考えさせられた。
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当初、狩野永徳か狩野松栄に学んだともいわれるが、直接師事したかは不明である。等顔は雪舟3世を名乗り長谷川等伯は雪舟5世を名乗ったのは興味深い。
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雪舟様式を一貫して踏襲し、水墨の山水人物を得意としたが、独自の世界をつくり出した。そして、その構成が大胆なことから武家に好まれた。また、人格的にもすぐれていたと評されている。代表的な障壁画としては、大徳寺黄梅院の諸作品がある。
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by shou20031 | 2005-05-22 09:04 | 芸術


モモに自分の生き方を考える。

c0039644_1857432.jpg「モモ」   ミヒャエル・エンデ
miyanboさんのお勧めでずっと気になっていたミヒャエル・エンデの「モモ」を一気読みしてしまいました。
 
  作者のエンデが伝えたかったのは、”時間”に対しての考え方なんだと思います。それは豊かさへの提言でもあるのでしょうか。人は何を”豊かである”と考えるのでしょう。
  
  昨今流行のスローライフの勧めなんでしょう。この本を読まれて皆さんはどう感じたのでしょうか?人それぞれ感想は違ってこそ面白いと思うのです。その時その人が何を考えているのか、何を悩んでいるのかによって正反対の感想があっても良いのだと思っています。

 私は自分自身の夢に対する考えでした。自分の心の中にあるものは決して他人との比較であってはならないと言う事と、そして・・・これ以上言っても恥ずかしいので言わずにおきます。あとは自分が何をするかだけですから。

 皆さんは何を感じたのか、人それぞれ違うはずなのです。たぶんそれが個性でしょうから。
肩を叩いてくださったmiyanboさんありがとうございます。皆さんのお勧めの本をぜひ紹介して下さい。お願いします。
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by shou20031 | 2005-05-21 19:01 |

    

永遠の愛ってあるのだろうか
by shou20031
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