中国歴史小説と幻想的な恋の話


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美術館で愛を語る

c0039644_2011084.jpg美術館で愛を語る  PHP新書 岩渕潤子著

美術館本に調子こいてもう一冊。じつはこの本1月に読んだ本です。著者の岩渕さんは海外での豊富なキュレーターの経験を生かして書いた本です。題名が洒落ているじゃないですか。
出来るか出来ないかには別として、気持ちは好きな絵の前で大好きな人とキスが出来たらどんなに気持ちいいだろうか。

著者は日本の美術館は館内では静かに見なくてはいけないような習慣があるが、欧米ではその美術品を見ながら語り合うことが普通であると言う。本来美術館は人間のもつ価値感の多様性に関して語りあい、相手と自分との違いを認め合う場所なのだと書いてある。日本人はどうも尻の穴が小さく、美術館で話しなどしようものなら、「お静かに」って言われてしまいかねない。

まさに同感である。美術品の前で恋人達が語り合ってる姿はちょっと良いかもしれない。但し、私の場合知ったかぶりをしたいが為に美術館で話したいだけではある。ちょっと周囲の人には有難迷惑かもしれない。どうですか。美術館で愛を語りませんか?

著者の岩渕さんは「美術館は眠らない」「美術館の誕生」「億万長者の贈り物」「イタリアを丸焼き」など美術館や文化芸術に関する多くの著作がある。この本の影響でほとんど読みました。でもこの本が一番素敵ですね。
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by shou20031 | 2005-04-30 19:05 |


書と画の大家 池 大雅(いけのたいが)

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飛んでる夫婦 池大雅(1723-1776)

与謝蕪村とともに文人画(南宋画)の大家と言われた。
京都の町人の子として生まれる。幼くして書をよくして7歳の時,宇治黄檗山万福寺で書いた書が神童として賞賛された。絵は土佐光芳に学んだ。15歳にして扇屋を開き自分の書いた画を売って生活を始める。祇園南海、柳沢淇園、彭城百川などの知遇を得て文人画家として大成する。池野姓を中国風に池に改める。ここに大雅出生の疑問がおきる。貧しい町人の子が七歳で神童と言われるような書を書き文化人と知り合いになる機会があるだろうか?大雅は公家の隠し子であったとも言われている。

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妻の玉蘭も絵師でオシドリ夫婦だったのだが、住んでた場所もお墓も別。古い慣習に縛られているような京都で凄い事である。玉蘭は母も祖母も歌人という町人だかインテリの家系である。こう言う女性を妻にする場合は意外と同居しないのが良いのかも。大雅から我々能無し男への提言かもしれない。
大雅はお金に苦労したわりには勘定は大雑把だったらしく、大きな水瓶の中に画の代金を入れさせ、そこから紙や絵の具、八百屋、魚屋は代金を持って行ったと言う。かなりいい加減な性格である。
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大雅の画に幕末の偉人佐久間像山の賛のある山水画。名画に賛を書き加えるなど自信家の像山ならではだ。
国宝「十便十宜図」は大雅が十便図としてを与謝蕪村が十宜図をそれぞれの理想郷を描いた図である。当初は大雅の十便図の評判が高かった。

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by shou20031 | 2005-04-29 00:58 | 芸術


五十歳にして全てを捨てて文人となった 浦上玉堂

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五十にして起つ浦上玉堂(1745-1820)

岡山の下級藩士生まれる。若くして弾琴の名手として日向延岡藩主に教授する。詩や書や雅楽まで造詣が深いかった。岡山鴨方藩の大目付まで出世するが失脚する。そしてなんと50歳にして脱藩して文人墨客との交流を深める。文人画家玉堂の名前が世間に知れるのは60代を過ぎてからです。玉堂は真面目な性格が評価され大目付まで出世した能吏であった。しかし理由は明らかでないが何らかの理由で失脚した後、藩籍を捨てて、文人墨客として名を成す道を選んだ。堅実な人だったらしく金に瀕した跡がみられず、常に糊口を凌ぐ道を確保していた。詩集を二冊出版している詩人でもある。
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玉堂の作った七弦琴と浦上氏の祖は竹内宿禰だと言う自筆の系図。信じるかどうかはあなた次第です。
浦上玉堂が文人として京都に出てきた時には文人画家の双璧与謝蕪村と池大雅は亡くなっていた。晩年には押しも押されぬ文人画の大家として知られた。
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もとより玉堂の絵は蕭白や蘆雪のように師匠について習い覚えた画ではないが、それゆえに何事にも捉われない自由闊達な筆使いが素晴らしい。俺にも描けそうだと思った方がいたら描いて見て下さい。描けそうで描けないのが文人画なのです。玉堂は旅に出て多くの文人墨客と交わり京都で七十六歳で亡くなった。墓は本能寺にある。
左の絵は国宝になった「東雲篩雪」川端康成記念会蔵
玉堂の母はこれからの武士は武芸よりも学問が出来なければならないと孟母と言われたほど、彼に対して激しく学問をさせた。しかし、玉堂の興味は詩画や弾琴に向いていた。皮肉にも失脚後の彼の生活を救ったのは詩画弾琴の芸だった。自分が会社を離れた時身を助ける芸がないことに鳥肌が立つ。
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by shou20031 | 2005-04-26 12:20 | 芸術


私も美術館でボランティア

c0039644_22152396.jpg私も美術館でボランティア淡交社
最近美術館に通っているせいか、美術館に関しての本を読んでみた。展示室の角に座っていたり、入り口で案内しているのはアルバイトなのかと思っていたが、中にはボランティアの方がいるらしい。全国に一千以上の美術館があってもボランティアを採用しているのは3割程度なのだそうだ。経費削減の観点から考えればもっと活用してもいいのにと思うがそれぞれの考え方があるらしい。
読んでいるうちに近所の美術館でボランティアしたくなった。せこい考えだか美術館でボランティアすればただで見られるじゃないかと思ったのである。ところがボランティアになるにはそんなに簡単ではないらしい。それぞれの美術館の主宰する研修会に参加したり、論文や面接を経てなれるのだそうだ。驚いた。どうやら入館料金払っているほうが楽らしい。
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by shou20031 | 2005-04-25 17:11 |


信じること

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                       葛飾北斎
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信じること

永遠なんて無いにもかかわらず
僕らは永遠を夢見ている。
出会った時の喜びが
いつまでも続くと信じている。

永遠なんて無いにもかかわらず
心を引き裂く悲しみに出会った時
僕らは失ったものの大きさに衝撃を受け
二度と立ち直れないとうろたえる。

永遠なんてないにもかかわらず
僕達は永遠の愛を誓った。
僕らは挑戦した。
時間が二人を分かつまで
永遠を信じ続けると
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by shou20031 | 2005-04-24 20:31 |


三度破門された絵師 長澤蘆雪

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円山応挙に三度破門された長澤蘆雪(1754-1799)
丹波笹山の下級武士の子として生まれる。円山応挙に絵を学ぶが、一度ならずも三度も応挙に破門されているらしい。その理由が応挙に書いてもらった手本をそのまま持参して直しを受けたところ、これは良くないと、言って師の応挙が直した。そこで今度自分が清書してもってゆくとこれはよろしいといわれた。これを得意げに蘆雪が仲間に言ったのが、師の応挙にばれて破門になったと言う。真面目な応挙の性格と悪戯好きな蘆雪の性格が出ている話である。それにしても三度も師の許しが出たことは蘆雪の性格の可愛げさなのだろうか。二十九歳の時に「平安人物誌」に師の応挙とともに名を挙げられている。その四年後紀州の無量寺で蘆雪の最高の作品となる虎図襖絵を描いている。正直人を馬鹿にしたような虎である。虎のような威厳がないし、どう見ても大きな猫である。しかしこの愛らしさは画家の持っていた個性としてみると凄いと感じた。長澤蘆雪は多趣味多芸の人だったらしく、剣は言うまでもなく馬術水泳音曲まで得意だったらしい。蘆雪は46歳の時大阪で毒殺されたのであるが、諸説あるが、淀藩主があまりにも蘆雪を可愛がるため他の藩士が毒殺したらしい。この話を読んだ時、「虎」を思い出してしまった。あんな無邪気な虎を描ける人間は賞賛と同時にそれ以上強い妬みを受けるのかもしれない。
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上の絵は円山応挙の「牡丹に孔雀図」を手本にして描いた絵です。比較して見て下さい。虎図のような無邪気さが全く無いのです。蘆雪は師の応挙を離れることにより自分のオリジナリティーを開花させたのかもしれません。長澤蘆雪の作品は紀州の寺に数多く残っている。残念なのは蘆雪の写真がネット上で公開されていないことである。紀州に足を運ぶ機会がありましたら彼の絵を見て下さい。蘆雪は蕭白とは逆で晩年になると絵がグロテスクになって行った。
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ここに掲載することは出来ないけれど蘆雪には素晴らしい山水画や美人画があります。もし彼が江戸に出て浮世絵を描いたならばきっと素晴らしい浮世絵師となってしたのかもしれないと思うのは私だけでしょうか?蘆雪は以前紹介した喜多川歌麿とほぼ同年代なのです。
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by shou20031 | 2005-04-23 21:04 | 芸術


もう一人の奇想の画家 伊藤若冲

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伊藤若沖(1716-1800)

奇想の画家と言う意味では私は曾我蕭白と伊藤若冲が双璧だと思っている。
生まれは光琳や蕭白のように裕福な京都錦小路の青物問屋の長男として生まれる。
光琳は放蕩三昧で家を潰し、蕭白は幼くして家が潰れてしまう。若冲は放蕩もしなかったが、芸事にも学問にも商売にも興味がなかった。40歳になると若沖は弟に家業を譲り、隠居して好きな絵だけを描いた。元来人付き合いが苦手だった若冲は髪を剃り、生涯妻子を持たなかった(なんで?)。絵は狩野派に学んだが、飽き足らず宋元画を何と1000枚模写したと言われています。私の大好きな、ちょっと変っている人間の匂いがします。

若冲の絵と言えば濃厚な色彩の鶏の絵が有名ですが、「動植彩絵」、以前私はこの絵が大嫌いでした。あまりにも強烈な色彩に感覚が麻痺してしまうのです。まるで怨念のような妖気がこもっているとしか思えない朱の使い方です。放蕩するわけでもなく、商売に専念するでもなく、妻帯もしないで、出家して寺に入って修行するわけでもない。ただ自分の好きな絵だけを描き続けてました。若沖は「私の絵がわかる人間が現れるまで千年待とう」と言って「動植彩絵」三十幅をお寺に納めた。おそらく若沖は芸事も学問も人に誉められたことがなかたのではないでしょうか。もしかしたら彼は本来自己顕示欲の強い人間だったのではないであろうか。唯一、絵だけが彼の生きてく支えであり、その表れがあの朱色だったのかもしれない。

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好きなのは「菜虫譜」に描かれている蛙の絵です。「動植彩絵」の妖気から解き放たれたようなユーモラスな表情です。最近若沖の本が出版されたばかりですから気になる方は見て下さい。きっと好きになると思います。若沖の彩色図は濃厚ですが、水墨画には軽妙なユーモアがあるのです。
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下は「蔬菜涅槃図」釈迦涅槃図を野菜で描き出した快作です。二股大根が白い体を横たえて釈迦を演じていますが、この絵は若冲の亡くなった母の冥福と家業の青物問屋の繁栄を願ってお寺に納められました。やがて彼の絵は評判となり六十代の頃、職業絵師でもないのに京都では円山応挙と並ぶ絵師として評判を得ました。晩年彼は自分の絵一幅と米一斗を交換して石仏を作りました。それが石峯寺の五百羅漢として今でも残っています。若沖は八十四歳の長寿でした。
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by shou20031 | 2005-04-21 21:30 | 芸術


あの頃のように

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あの頃のように


今だから笑って言えるけど
あの頃は恋が全てだった、
寝ても覚めてもあなたの事を想っていて
私の瞳にはあなたの姿しか映らなかった。

ねえ覚えているかしら
私達が始めてキスした日
凍えるような夜風が吹いて、あなたが震える私を
世界一暖かなコートで包んでくれた。

ねえもう一度照れずに言ってよ。
あの時と同じように愛してるって。

幸せって長く続かないものね。
あんなに愛していたはずなのに、
どんな事だってあなたの為にしたのに、
たった一度のあなたの過ちを許せなかった。

ねえ覚えているかしら、
最後の晩に踊った曲の名前
あなたは知らないでしょう、私のサイドテーブルで、
今でもあの頃のあなたが笑っているのを

ねえ、どうして電話してきたの。
あの頃のように優しくしないでね。
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by shou20031 | 2005-04-20 14:29 |


夢と希望と

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夢と希望と

その子はどこにでもいる女の子だった。
また会いたいと私が言うと、
優しい笑顔で、私は一回2万円の女よ。
月十万円の為に、毎月5人の男と寝るの。
あなたはそれでもいいの。

どこにでもある話よ。
父親が突然リストラになって
専門学校にも通えなくなったのだけれど、
でも小さい頃の夢だから、続けようと思ったの、
コンビニのバイトで月6万円、援助交際で10万円

生活の為に男と寝るの。
それでもいいなら会うのはかまわない。
でもね。お金だけの関係と割り切ってね。
変な同情も、愛情もいらない。
私は一回2万円の女なの。
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by shou20031 | 2005-04-20 14:12 |


奇想の画家 曾我蕭白

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画を望ば我に乞うべし 曾我蕭白(1730-1781)

曾我蕭白の名前をご存知ですか?実は曾我蕭白の名前はしばらく忘れられていました。
彼の名前を一躍有名にしたのは三十年以上前に出版された「奇想の系譜」と言う本でした。それ以来評価の上がっている奇想の画家です。現在京都国立博物館で5月15日まで特別展をしています。(途中で一部展示変えがある)”百聞は一見にしかず”正直これほどのものとは思っていませんでした。驚くべき迫力で見る者に迫ってきます。蕭白の絵には只ならぬ妖気が漂っているのです。狩野派や土佐派など既存の権威に挑戦している意気込みを感じる絵でした。
今月の芸術新潮にも特集されています。興味のある方は書店で見て下さい。


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この人は京都の大店の染物屋の子として生まれるが、幼くして両親を亡くして苦労しました。絵は狩野派の高田敬輔(滋賀県立美術館で4月23日から特別展があります)に学ぶが、どうやら破門になったようです。伝統と権威の狩野派をあざ笑うがごとく、、十代目の曾我蛇足(曾我派は水墨画の流派)と名乗ったり、藤原鎌足の末裔と名乗る。そして明の太祖洪武帝の十四世であるとまで大法螺を吹きまくる。
c0039644_18342151.jpgしかし絵を描く力は抜群である。一気に書き上げたのであろう「唐獅子図」や「達磨図」の圧倒的な筆運びに息を呑んだ。曾我蕭白は30代の時に伊勢に放浪の旅に出る。実際伊勢の各地に彼の作品を残している。ある殿様に絵を描くように頼まれたが、絵も描かず毎日食っては寝てばかりで絵を描こうとしない、家老が催促すると高価な絵の具を墨の中に投げ入れ箒で金屏風に一気に線を描いて立ち去った。その後には屏風に七色の虹が描かれていたと言う。蕭白にはこのようなエピソードが沢山ある。

c0039644_2155466.jpg蕭白の描く人物は、まるで何かと戦っているかのような、妖気が漂う。それが既存の京都画壇だったのであろうか。悲しいことに蕭白は48歳の時に息子を亡くしてしまう。そしてそれまでの画風ががらりと変って、透明感のある山水図を描く。しかし、息子を追うように52歳でなくなる。墓は京都堀川の興聖寺にある。驚いたことに私が何度も訪れたことのある寺だった。興味のある方は京都国立博物館を訪れてみると良いかもしれない。彼の人物がは不気味でも山水画は一級品である。
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by shou20031 | 2005-04-19 19:56 | 芸術

    

永遠の愛ってあるのだろうか
by shou20031


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