中国歴史小説と幻想的な恋の話


カテゴリ:中国歴史小説( 20 )



これから書きたい中国歴史小説。


 今、中国の歴史小説の構想を纏めています。中国歴史小説と言うと漢字が難しく登場人物が誰だかわからなくなるとか、時代背景が難しいとかありますよね。そこを何とか解決できれば中国歴史小説は雄大で楽しいものとなると思います。

 今私がトライしているのは。およそ2500年前の中国は斉の国の話です。斉の国で眉目秀麗を謳われた名門貴族の青年が二十歳になったばかりの頃に国を追放され、25年後かけて宰相となって戻ってくる話です。その後25年間安定した政治を行うのですが、70歳になって斉国一の美女を娶ってしまったがゆえに、君主を殺し、最後は自殺してしまうという。波乱万丈の人生を描きたいと思っています。宮城谷昌光さんだったきっと全3巻1500ページぐらいの大書にできるのでしょうが、私のようなアマチュアがそれをしたら、誰も読んでくれないでしょう。

 晋の文公(重耳)は19年の放浪の後に晋の君主に還り咲く事ができましたが、貴族とは言えまだ二十歳そこそこの青年がどうやって25年もの間耐え忍んだのか人間として非常に興味があります。帰国する為に様々な策を用いたでしょう。数え切れない挫折を味わい血の涙を何度も流したでしょう。それでも諦めずに帰国した精神力を書いてみたいのです。

 正直に言ってブログ向きの小説ではないようです。長く単調で、説明や注釈が文章を切ってしまうでしょうが、そこは中国の歴史小説の宿命。なんとか工夫したいですね。

 眉目秀麗を謳われた主人公と幾人もの女性との恋も波乱万丈だったのではないでしょうか。従来の歴史小説に捉われないロマンを書ければいいな~と思っております。

 こうやって書くことで自分の萎えそうになる気持ちを奮い立たせて頑張って書きます。
 

 




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                      中国春秋時代の諸侯地図
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by shou20031 | 2005-03-06 17:05 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子 Vol.18 旅立ち

 呉起の与えられた地位は下大夫のままであるが、与えられた領地は全て国境に面しているとは言え、上大夫に等しかった。元公は領地として与えられても維持するのが難しい国境の土地を与える事で三桓子に文句を言わせなかった。
「既にここまで来てしまっている。君命に従おう。後は領地で国境警備をしながら考えるしかあるまい。今日は祝いの夜だ。思う存分飲んで来い」
 呉起は難しい顔をして考えている皆に言った。苦しい戦いを終えた後だけに、せめて今夜だけは皆に楽しんでもらいたかった。自分がいては皆が寛げないと思い呉起は部屋を出た。

「お父様。おめでとうございます」
 呉淑が侍女に手を引かれて呉起の出てくるのを待っていた。
「起きて待っていてくれたのか」
 呉淑を抱き上げると、子供特有の甘い匂いがした。呉起は自分の心が寛いでゆくのを感じた。
「今夜は私と寝よう」
「英雄と一緒に寝るのですね」
 呉淑が覚えたての言葉に舌を縺れさせながら嬉しそうに言った。
「一体だれがそんな言葉を教えてくれたのだ」
「皆が呉淑の父上は英雄になられたと教えてくれたのです」
 呉淑はそう言うと呉起に甘えるように抱きついた。呉起は母親を亡くしても、気丈に振舞う呉淑が愛しくて頬をつけるように抱きしめた。
「父上。髭が痛い。それに汗臭いわ」
「おお。すまぬ。寝る前に湯でも浴びてくるか」

 呉起は呉淑を抱き下ろして湯を浴びに行った。垢に塗れた体を湯で洗い流して寝室に戻ると、すでに呉淑は寝台の上で寝むっていた。呉淑の額に掛かる髪を指先でかきあげると、締め付けるような悲しみが呉起を襲った。今ここに李香を呼び戻す事が出来るなら、全てを棄ててもいいと思った。

 曲阜の街の人々が新しい年を迎える準備で忙しい年の暮れに、元公が閣議の途中に気分が悪いと退出し、そのまま亡くなられた。
 元公の突然の死に毒殺説まで噂された。直ちに太子顕が位につき、穆公となった。喪が発せられ華美な行事が中止となった。
 やがて元公の葬儀が終わった頃に、曲阜の街に呉起の悪い噂が立ち始めた。呉起が斉軍に大勝できたのは、斉と密約を行ったからではないかとか。斉人の妻を切ってまで将軍になったにも拘らず、恩賞が少ないので謀反を起こすのではないかとか。根も葉もない噂が広がった。

「どうやら季亮子様の家人が広めているようです」
 超耳が街中の噂の出所を調べた。
「何の為にこんな噂を流すのだ」
 蔡信が超耳に尋ねた。
「『呉起将軍に謀反の企てあり』とする為の根回しだ。我々が領地で国境警備の為に兵の鍛錬でもすれば、充分な謀反の証拠だ」
 超耳が噂を調べながら考えついた事を話した。

「どうすれば疑いは晴れるのだ」
「季桓子に大金を贈れば赦して貰えよう」
「どの位贈ればいいのだ」
「千斤や二千斤は贈らねばなるまい」
「そんなにか」
「命との引き換えだ。全財産を交換しても惜しくないだろう」
 超耳と蔡信が呉起の命の値段を心配して話していると、玄関に顔を隠した宮廷の高官が現れた。

「呉起殿に内密にお会いしたい」
「どなたでしょうか」
 蔡信は不審な者は通さないと無言の態度で示した。
「蔡信殿、私だ」
 高官は顔を隠していた布を上げた。季亮子と親しくしている陶固が顔を隠して呉起に会いに来るのは相当な訳があるのだろうと、蔡信は何も尋ねなかった。
「陶固殿。どうぞこちらへ」
 蔡信はそう言うと呉起の仕事部屋に案内した。

「突然尋ねて申し訳ない。どうしても呉起殿に伝えたい事があって参りました」
 陶固が呉起の部屋に入ると顔の覆いを取って挨拶した。
「季亮子様の事でしょうか」
「呉起殿のことだから、ある程度は予測されているとおもいますが、呉起殿は斉軍にあまりにも見事に勝ちすぎたのです。あなたをこのままにしておけば、いつか穆公と結び、自分達も斉軍のように滅ばされるのではないかと季亮子様は恐れています。ですから呉起殿が任地に赴かれた後に、証拠を捏造し、曲阜に召還して謀反の疑いで誅殺するつもりです」
「覚悟はしていましたが。やはりこの国を棄てるしかありませんか」
「それが一番懸命な方法だと思われます。呉起殿であれば、いずれの国も将軍として招きましょう」

「陶固殿。私の家を訪れれば疑いを招きましょう」
「かつての過ちの償いをしたかったのです」
 陶固はそう言うと懐から金を出した。金袋の中に五十斤入っていた。
「元金のみの返却ですが。昔の借金を返しに来ました」
 陶固はそう言うと嬉しそうに笑った。
「お体に気をつけて下さい。私はこれからもあなたの友でありたいのです」
 陶固はそう言うと顔に覆いをして部屋を出た。呉起は卓の上に置かれた五十斤を大切にしまった。

 華元や李克など斉軍と激しく戦った者達は、新たな領土で兵を練り、三桓子と戦う事を主張したが、呉起は反対した。
 新たに君主となった穆公が、三桓子を敵視していないので、戦えば李亮子の思惑通り謀反を起こすことになった。

「幸い斉軍との戦いで我々は武名と富を得ることが出来た。このまま戦えば犬死だが、魯の国を棄ててみれば、新たなる夢を手にいれる可能性は開けるのだ。我等を必要としなところで争わず、必要とするところで皆の力を発揮しよう」
 呉起は戦いを主張する者に語りかけると言うよりも自分に言い聞かせるように言った。
「魏の文公が広く人を求めていると聞いた。斉軍に大勝した呉起まらばきっと大歓迎だろう」
 諸国の情報に通じている超耳思い出したように言った。
「李亮子は憎いが、一緒に戦った魯の国の兵とは争いたくないな」
 蔡信がそれまで閉じていた目を開いて言った。蔡信の言葉に華元は大きく溜息をついた。
「戦うが下策、逃げるが最上の策か。糞面白くない」
 華元が破棄捨てるように言うと、李克は華元の言葉に手を打って笑った。

 呉起は家人に魯を離れる事を伝え、魯に残る者には充分に金を与え、どうしても呉起と共についていきたい者と共に曲阜の街を旅立つ決意をした。それでも百人近くの人間が呉起とともに行くことを願った。

 呉起は新たな領地に向かうようにして曲阜の街の城門を出た。
「やはり旅は気持ちがいいな。俺達には宮仕えは合っちゃいないのさ。礼儀に作法、気楽に屁もできない。宮廷に行くと聞いただけで熱が出たぜ」
 既に上士の扱いを受けている超耳が馬車にも乗らず歩いて言った。
「帝丘の街を出た頃は金もなく、飯の心配ばかりしていたけど、それでも毎日が楽しかったものな」
 華元が馬車の手綱を捌きながら言った。
「しかし帝丘の街を出た時も、たしか公室の争いに巻き込まれて旅に出たんだよな」
 李克は自分が改良した石弓をいじりながら言った。

「魯も斉もしっかりした君主がいないから、敵に攻められるよりも、政治の争いで国の力を衰えさせている。迷惑するのはいつも民百姓なのです」
 快がまるで吐き棄てるように言った。

 城門の脇に、呉起が賊曹掾であった頃、夥しい数の盗賊の首が晒されていた台には数羽の烏が止まっているだけであった。
「魯の国に来て十年私は多くの物を得る事が出来たが、最も大切な者を失ったようだ」
 呉起は曲阜の城門を振り返って見て言った。
「お父様どちらにゆかれるのですか」
 呉淑が呉起の膝の上で尋ねた。
「大切な者も得たではないか」
 蔡信は呉淑の黒髪を撫でて言った。

 呉起は魯の国を棄てた後、魏の文公に迎えられ西河の太守として秦や韓など諸侯相手に戦い、歴史に名を残す圧倒的な強さを示した。文公の全幅の信頼を得て、76戦64勝12引分けで無敗の将軍として呉起の名は怖れられた。しかし文公が亡くなり武公の時代になると、魏の国も追われる。
           
 やがて楚の国の悼公と出会い、絶対的な信頼を得た呉起は宰相となり大改革を行って楚を強国とする。しかし悼公の死後、改革に反対した公族や大夫に殺されてしまう。楚がこのまま呉起の改革を継続していれば、秦に変って楚が中国を最初に統一した国になったのではないかと言われている。

 覇業を志す君主にのみ、天才的戦略家呉起の才能を活用する事が出来た。しかし、保守的な君主や卿大夫にとって、呉起は己の地位を脅かす恐怖の存在となり、最後には命まで奪われてしまうが、それはこれより30年後の事である。

                                           若き日の呉子 終わり
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by shou20031 | 2005-02-08 22:37 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.17  奇跡の勝利

「後は華元(かげん)の働き次第だ」
 蔡信は骨の髄まで疲れているにも拘らず、眠れぬ夜を過ごしそうな気がしていた。

 斉軍は右軍と左軍は死傷者を出していたが陣形を組み直すことに問題はなかった。さらに中軍はいまだ無傷であった。
 斉軍は累々と横たわる死体を見守るように野営をした。戦闘の疲労と眠れぬ夜を二日過ごした斉兵は、倒れるように眠り込んだ。
 
 その夜、華元は魯兵三千を率いて、息を殺すようにして船で斉軍の後方に密かに乗り着けた。
 足音を消して斉軍陣地まで忍び寄ると、突然鐘や太鼓を打ち鳴らし斉軍陣地に大声を上げて斬り込んだ。

「魯軍一万の夜襲だ。逃げろ」
 華元は太鼓を打って叫んだ。
「早く逃げろ。殺されるぞ」
 華元は声が涸れるほど叫んでいた。
 三千の魯兵が狂ったように金や太鼓を打ち叫んでいた。
 時を同じくして、魯の本隊が疲れ切った体を引きずるように斉軍に近寄って声を上げ、太鼓を打った。最後の力を振り絞るようにして石弓の部隊は斉軍の陣地に火矢を放った。

「何の騒ぎだ」
 斉の中軍陣営にいた将軍田頼(でんらい)は当直の兵士に聞いた。
「魯軍による夜襲のようであります」
「急ぎ兵を整えよ」
 田頼は武将の嗜みとして戦場では鎧を着たまま寝ていた。
「篝火を増やせ」
 夜襲に備えていた中軍は、金や太鼓の音を聞いても慌てる事なく陣形を整えた。
 規律ある兵士達の掛け声が響いた。やがて篝火の数が増やされ、中軍の陣営が夜空に煌々と浮かび上がった。この篝火がとんでもない結果を招くことになるとは、田頼さえも予想できなかった。

 睡眠不足と戦いで疲れ切った右軍と左軍の兵士達は、隊内の規律を忘れ鎧や冑も脱いで寝ていた。怒涛のような火矢が大きな弧を描いて泥のように寝ていた斉の兵士に降り注いだ。
驚いて我を忘れた兵士は、裸で逃げ惑う者や、味方同士で斬りあう者までいて、さらなる混乱を招いた。やがて夜襲を企てた呉起でさえ想像もしなかったことが起きた。
 恐怖に駆られた兵士達は、篝火で明るくなった中軍の陣営に、蛾が群がるように雪崩れ込んだ。

 中軍の兵士も、走り寄ってくる暴徒と化した自軍の二倍近い兵士達に巻き込まれて混乱に陥った。規律が保たれていた中軍兵士にも恐怖が伝染した。規律を失い逃げ惑う左右軍の兵士が殺到して、あろうことか中軍の篝火を倒してしまった。突然の暗闇と降り注ぐ火矢が一瞬にして、中軍の将兵までも恐怖に駆られた暴徒となった。驚くべき事に、斉軍はその夜の内に将軍である田頼を含めた全員が逃走した。

 朝日が昇った時に、斉軍の陣営には誰一人姿がなくなっていた。
「奇跡が起きたとしか思えん。」
 呉起は魯軍幹部と斉軍の陣営跡地を歩きながら言った。数え切れぬほどの鎧や冑、矛や弓がうち棄てられていた。
 戦場に横たわる両軍兵士の数千にも及ぶ死体から死臭が漂い。激しい疲れが、呉起の闘争心を萎えさせていた。
 その時呉起は勝った喜びよりも李香の面影を思い浮かべていた。

 『呉起将軍。斉軍を破る』の知らせはその日の内に早馬によって曲阜に届いた。
「本当に勝ったのか」
 知らせを受けた元公でさえ、信じられずに身を乗り出して伝令に確認した。
「呉起将軍は見事に斉軍三軍を粉砕し、魯領には一兵の斉兵も見当たりません」
 伝令の話を聞いた閣僚達から喜びの声が上がった。

「そうか。勝ったか」
 元公は大きく溜息をつくと、喜びのあまり笑い出していた。
 斉軍三軍との戦いまで覚悟していた曲阜の街の人々は呉起の名前を叫んで狂喜し、夜を徹して魯軍の勝利を祝った。

「魯軍の勝利はめでたいが、呉起将軍は勝ち過ぎた」
 季亮子は小宰(宰相の補佐官)の陶固に言った。
「勝ち過ぎてはいけませんか」
 陶固は宮廷での出世の為に季亮子と親しくしていた。呉起と陶固は宮廷内で会っても挨拶を交わすだけの関係であった。
「この度の勝利で、元公は呉起を更に重く用いよう」
「これほどの勝利であれば、当然かと思いますが」
「元公は我ら三桓子の力を削ぐ為に呉起を用いようとしているのだ」
 李亮子は呉起を重用したい元公の胸の内を見抜いていた。
「季亮子様にとって、これからは呉起将軍は目障りな存在になりますな」
 陶固は季亮子の言葉に心の動揺が現れないように言った。
「陶固殿。確かそなたと呉起将軍は曾参殿の学塾で一緒であったな」
「はい。僅か二年でありますが」
「何か悪い噂を聞いた事はないか」
「どうでしたか。あまり親しくありませんでしたので」
「いずれにせよ。呉起の身辺を注意して見てくれ」
 季亮子はそう言うと宮廷内の喜びの声の中に消えて行った。

 陶固は曾参に告げ口した自分を責めることなく、許してくれた呉起に引け目を感じていた。出世の為に季亮子に近づいてはいたが、もう二度と友を売る気にならなかった。

 多くの曲阜の街の人々が城門の前で呉起の帰りを迎えた。人々は戦車に乗る呉起に群がり、しばしば行列が進まなくなってしまった。若い娘は斉軍と戦った兵士に駆け寄り、絹の布を首にかけた。
「蔡信よ。今晩は寝らせてもらえそうにないぞ」
 呉起は御者を務める蔡信に言った。
「今晩だけは皆で酒と女に溺れさせてもらう」
 蔡信は人々が駆け寄ってくるのを注意しながら戦車を御して言った。呉起はこの華やかな凱旋の中に、いるはずのない李香の姿を捜していた。

 曲阜の人々は呉起が持ち帰った戦利品の多さに驚いた。斉軍が戦場に置いて行った荷駄の列が魯軍の兵士の隊列よりも多かった。
 戦車が曲阜の街に入り、都大路から宮殿までの凱旋はあまりの華々しさに呉起の気持ちも高揚させた。

「呉起将軍。大勝利おめでとうございます」
 呉起が宮殿の前で戦車を降りると、宮廷の官僚達が一斉に万歳を唱えた。
「見事な大勝利であった」
 階段を登って元公に帰陣の報告と将軍の印綬の返還を行った。
「斉軍を打ち破った功績に対して、約束通り汶(ぶん)と彭(びょう)の二城を与えよう」
 しかし、汶も彭も国境の街であった。呉起に与えられた食邑全てが国境の街であった。呉起以外の者であったら辞退するであろう、諍いの耐えない土地であった。

「有難き幸せに御座います」
「呉起将軍は剣の名手だと聞いた。これは私からの贈り物だ」
 元公は自らの佩刀を外して、呉起に与えた。金象嵌を施された見事な鉄剣であった。
「これからも魯の為に、身命を尽くします」
 呉起は片膝をついて佩刀を受け取った。

「呉起将軍、詳しい戦の話は宴会の席で聞かせてもらおう」
 元公はそう言うと自ら呉起を案内するように宮殿に導いた。呉起は言うに及ばず、宮殿の祝勝会には蔡信や超耳など呉起の部隊の幹部が招かれた。蔡信達幹部は酒と女に溺れるどころか緊張の為、酒も喉を通らなかった。
「呉起よ。暫くの間、小司寇の職を免ずる」
 元公が周囲を憚るように呉起の耳元で囁いた。季亮子が訝しげに二人を見ている事に呉起は気づいた。
「はい」
 呉起はどう言う事なのか意味もわからずに元公に返事をした。
「この国には、私の手足となるものがいないのだ。新たに与えた食邑を豊かにして兵を練れ」
 元公はそれだけ言うと呉起から離れた。
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by shou20031 | 2005-02-07 16:44 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子 Vol.16 斉軍との戦い

「呉起よ。厳しい戦いであろうが斉軍を打ち払ってまいれ」
 宮殿にて元公より呉起は将軍任命の言葉を賜った。
「身命に誓って、斉軍を打ち払います」
 呉起の心は李香を失った悲しみを乗り越えて斉との戦いで一杯になっていた。
「私の代わりにこれを持て」
 元公より呉起に斧と印綬が手渡された。

呉起は宮殿の前から一軍の将軍として戦車に乗り込んだ。
太鼓が打ち鳴らされ呉起を先頭に曲阜の城門を出て沂水と泍水の間に広がる地に向って軍を進めた。

 呉起は超耳を隊長として鄆の守備隊五百を国境の山中に伏せさた。斉の国には呉起は伏兵を得意とする奇策の将であるとか、夜襲を必ず仕掛けてくると噂を流しておいた。

 超耳は斉軍が野営すると、深夜に突然太鼓を叩き、声を上げさせ、松明を持って山中を移動させた。斉軍は噂通り、夜襲なのかと驚いて眠ることが出来なかった。

 二日目は斉軍が夜襲を警戒して深夜まで焚き火を高々と燃やしているのを見て、最も眠くなる明け方直前に太鼓を打ち鳴らし鬨の声を上げさせた。眠りに落ちたばかりの斉兵は叩き起こされ慌しく武具を身につけた。

 三日目斉軍は梁山の麓で魯軍の本隊と遭遇した。

 呉起が得た情報によれば、斉軍の将軍田頼(でんらい)は才能豊かで、将として将来を期待されているという。今回は三軍もの兵を率いて田頼が勝利に拘り過ぎていると許駿から連絡があった。大軍をもって戦う場合は、正攻法で戦い、適当なところで和議を行うのが常であった。

 呉起の目の前には斉の旗が青空を埋めるように林立していた。
 呉起が陣を敷いた地は一軍の兵を展開するには十分な広さであるが、沂水とその支流に挟まれて、三軍の兵を展開するほどの広さはなかった。斉軍はやむを得ず右軍を正面に、その後ろに左軍と、そして中軍と三軍を布陣した。

 魯軍、斉軍合わせて五万人の兵士達がお互いの表情も読み取れるほど僅かな空間を間に睨み合っていた。
 晩秋の太陽が昇り始め、兵士達の額に汗が滲み始めた頃、両軍の太鼓が打ち鳴らされ矢が放たれた。

「いいか出来るだけ早く矢を番えよ。一番多く矢を射た者には褒美が与えられるぞ」
 李克は部下に向って大声で命じた。弩と言われる石弓の部隊五千が三段に分かれて田頼の部隊へ矢を射った。魯軍の矢は斉軍の兵に雨のように降り注ぎ次々と兵士が倒れた。斉軍も矢を放つが半弓の為、魯軍の手前で落ちてしまった。
 呉起は三倍の兵と戦う為、兵を損なうことなく、敵を倒す事が出来る、石弓部隊を主力とした部隊編成を行った。石弓は弩(ど)とも呼ぶ。盾をも貫く強力な兵器であった。

「あの石弓の陣を崩せ」
 田頼は戦車を先頭に突撃を命じた。
「良いか、我慢しろ。出来るだけ引き付けて馬を打て」
 李克は三人掛かりで扱わなければならない巨大な石弓二百を戦車に向けて放った。激しい羽音を立てた二百の矢が馬や兵士に突き立った。斉兵はその羽音に驚く間もなく倒れた。

 一瞬にして十数台の戦車が転倒していた。

 魯軍に到達出来たのは五十台の馬車のうち僅か数台のみであった。
戦いは始まって間もないが、斉軍の陣地には累々と死体が横たわっていた。

 突然、太鼓が激しく打ち鳴らされた。
 斉軍の右軍全軍が魯軍に向って駆け足で進軍した。魯軍は押し寄せる斉軍に対して石弓を放った。斉軍は盾を掲げて矢を防ごうとしたが、魯軍の矢は斉の盾を打ち抜いて兵を倒した。

 魯軍の前に斉兵の屍が次々と横たわる恐るべき殺人劇が続けられていた。斉兵は矢に撃ち倒される為だけに前進して屍の上に屍を重ねた。
 矢羽のたてる音と悲鳴が絶え間なく聞こえ、やがて恐怖に耐えられない兵士達が前線を逃亡して、見方の陣に雪崩込み斉の右軍は混乱に陥った。

 既に太陽は中天に達していた。
 斉軍で太鼓が打ち鳴らされ、右軍と左軍が入れ替わった。夥しい数の兵士の死体が横たわり、傷付いた兵士の呻き声がまるで唄のように聞こえた。

 新たな斉軍の太鼓の音と共に左軍は盾を三枚重ねて前進を始めた。魯軍の放つ矢が音を立てて盾に突き刺さった。斉兵は矢に射られることもなく魯軍の陣地に近づいて行った。

 呉起が手を上げると今度は魯軍の太鼓が打ち鳴らされた。

 石弓の部隊が矢を高く放った。放たれた矢は大きく弧を描き、斉兵が恐怖に見上げる顔に降り注いだ。斉軍の後方部隊がまるで薙ぎ倒されたように矢に当たって倒れた。

「蔡信に敵の盾を打ち壊すように伝えよ」
 呉起の命令を聞いた伝令は蔡信のもとへ走った。
 呉起は太鼓や旗などの合図により各部隊が行動できるように訓練を徹底した。特に寡兵をもって大軍と戦う場合、作戦通りに部隊が動けることが勝利を左右した。

 魯の弓部隊の脇から斧を担いだ大男の部隊1千が現れ、斉軍の盾と兵士を打ち倒し、両軍の戦いが始まって以来、初めての血みどろの肉弾戦が繰り広げられた。

 魯軍1千の大男の振り下げる斧や鉞が斉兵の矛や戟を打ち砕き、血飛沫を上げて斉兵の首を打ち落とした。

 魯軍で鐘が鳴らされると大男達は斧や鉞を担いで先を争うように走り戻った。盾を壊された斉兵を魯の石弓部隊が狙い射った。やがて朝から石弓を撃ち続けている兵士の疲労が激しくなり矢の放たれる間隔が長くなっていた。

 斉軍の太鼓が打たれると兵が二つに別れ、間から百台近くの戦車が突然走り出して来て、
瞬く間に魯軍の石弓部隊の陣地に乗り入れ、それまでの恨みを晴らすように魯兵を薙ぎ倒した。

「よおし、今だ。退却させよ」
 斉軍の動きを見ていた呉起が命じると、旗が振られ太鼓が早打ちされた
 魯兵は我先にと退却を始めた。魯兵が雪崩を打つような退却を行うと、斉の左軍の戦車隊は追撃して矛で魯兵の首を次々と打ち落とした。

 やがて魯軍の退却に引き摺られるように斉軍の前線が間延びした。

「伏兵と本隊に攻撃の合図を送れ」
 呉起は作戦通り斉軍が間延びしたのを見計らって、太鼓を小刻みに打ち鳴らさた。

 小高い山の麓に伏せていた魯兵三千が、伸びきった斉軍を断ち切るように脇から攻撃をした。退却していた魯軍本体も矛を返すように態勢を変えて斉軍を挟み討った。

 太陽が傾き、夕闇が迫ってくると、両方の陣営から太鼓が打ち鳴らされて、双方陣を引いた。それまでの戦いが嘘のような静寂が訪れた。

 一日目は魯軍が大勝した。
「皆の頑張りで、なんとか今日一日の時間稼ぎは出来たな」
 呉起が溜息をつくように言った。
「一日中弓を射ていたので、弓部隊の者は腕が上がりません」
 李克は兵の情況を報告した。傷付いた兵士は少ないが、疲労で飯を食べる力もなく倒れ込むように寝ていた。
「明日戦いがあるとすれば、鄆の砦に籠城するしかないでしょう」

 魯軍は一軍しかない兵士が戦いに傷付き倒れ込むように寝ていた。斉は右軍左軍が傷付いていても中軍が無傷で残っていた。魯軍が明日戦へば兵力の差で無残にも負けることは間違いなかった。

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by shou20031 | 2005-02-06 16:18 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.15 失ってはならぬもの

 呉起はその日から来るべき戦いを想定して、幾つもの作戦を纏め上げ、必要な装備の準備に忙しくなった。許駿の下から次々と斉軍の情況が知らされた。

「呉起殿、この度の将軍任命に関して懸念が出ておるのだ」
「一体何でしょうか」
 呉起は閣議を終えて宮廷を下がろうとしようとした時、宰相の季亮子に呼び止められた。
「そなたの妻が斉の公孫ではないかと言う噂だ。そなたの妻を疑うわけではないが、公孫を妻とする者を斉の戦いの将軍にするには将兵に対し憚りがあろう」
「確かに妻は斉人ではありますが、公孫ではありません」
「ただの噂か」
 呉起の返事を聞いて季亮子は納得したように頷いた。しかしどうして李香が公孫であると言う噂が出たのか不思議であった。

 呉起は家に戻ると季亮子に尋ねられた事を思い出した。なぜ李香が公孫などと言う突拍子な話が出たのか考えていた。
「何かご心配があるのですか」
 李香が呉起の腕の中で心配そうに尋ねた。李香は淑を生んでも、娘の頃と変わらない肌をしていた。
「いや。何も心配する事はない」
 呉起は李香を安心させるように抱き寄せた。魯の大夫の中にも斉人を妻としているのは珍しくはなかった。元公でさえ斉の公女を妃としているのに、斉が呉起を陥れるように流した噂に動じることはないと無視することにした。
 しかしその判断が取り返しのつかない事になるとは知る由もなかった。
 
 次々と斉軍の動きが知らされるにつれて曲阜の街も緊張感に包まれ、様々な噂が飛び交っていた。呉起は斉軍が侵攻してくるであろうと思われる国境の下見に出かけた。久し振りに日に焼け、汗をかいて野山を歩いたことが、呉起に不思議な自信を芽生えさせていた。
 
 李香は宮廷で自分が斉の公孫ではないかと言う噂があり、斉を迎え撃つ将軍として呉起は相応しくないと言う話がある事を知った。
 李香は呉起にも伝えていない自分の出生の秘密がどうして噂になったのか恐怖を感じた。やがて呉起があの晩、李香の事を想って何も尋ねなかった事に思い至った。踊り子であった自分を正妻として迎えてくれた呉起の優しさに甘えすぎていた事に気づいた。自分が出生の秘密を隠していた為に呉起が将軍を解任される事が耐え切れなかった。
 李香は呉起が下見から戻る前日淑を寝かせた後に、李淵に手紙を書いた後、短刀を胸に当て自害した。
 
 翌日、真っ黒に日焼けした呉起が屋敷に戻ると、門の前で李淵が呉淑を抱いて待っていた。
「お久しぶりでございます」
 呉起は李香の姿を捜して言った。
「ご苦労様でございます」
 李淵が呉起と視線を合わせられずに応えた。呉起は十日振りに会う呉淑を抱き上げた。
「お母様はお元気か」
 呉起は呉淑のやわらかな頬に顔をつけて尋ねた。

「お母様は天国と言う所へお出かけになったの」
 呉起は呉淑の言葉の意味がわからず李淵の顔を見ると、手で顔を隠すように泣いていた。
「李淵殿。李香に何かあったのですか」
「お父様。お母様は淑が良い子でいると帰ってきてくれるそうです。ですから淑は良い子でいます」
「そうか。淑は良い子でいるのか」
 呉起が呉淑を抱いて屋敷の中に入ると、香木の薫りに包まれて、広間に白い棺が横たえられていた。
「李香」
 
 呉起は呉淑を抱き下ろすと、呆然と棺の前で立ち尽くした。李香の侍女が呉淑を奥の部屋に連れて行った。
「呉起どの。李香は己が妻では将軍として人に謗られると私に手紙を残して、命を絶ったのです」
 李淵が声を詰まらせながら話した。
「李香が斉の公孫であると言う噂が宮廷まで流れたのです」
 呉起はあの晩李香ともっと良く話していればこのような事にならなかったと深く後悔した。あまりの悲しみに心は痛みさえ感じる事ができなかった。
「あの子自身でさえ忘れていたでしょう」
 
 もう二十年以上も昔、李香の母が斉の公子政の屋敷に招かれて踊りを舞ったところ、見初められ一夜を過ごした。そして生まれたのが李香だったが、しかし李香の存在は公子政にさえ伝えていなかったが、あの当時の踊り子がどこかで口にしたことが噂になったのでしょうと李淵が語った。

「斉の国の間諜が何処からか調べ出して流したのでしょう。戦が始まる前に、相手の国の主将の妻を自害させたのですから、今度の敵は容易ならぬ相手です」
 呉起の声は怒りに震えていた。出生を尋ねた時にその理由を李香に説明しておけば良かったのだ。呉起は将軍としての気負いで、噂を聞いた李香の気持ちまで考えが及ばなかった事を後悔した。 
 季亮子に尋ねられた時、斉の公女が元公の妃でいるのに、元公に将軍に指名された自分の妻が斉の公孫でどこが悪いと言う自負さえあった。しかし、噂を聞いた李香の気持ちまで想像することが出来なかった。李香がどんな想いで己の命を絶ったのかと思うと、やり場のない怒りに身を苛まれた。悲しみにくれた呉起の夢の中で出会った頃の李香が美しく舞っていた。呉起は起きている間は亡骸を抱き、寝ている間は夢の中で李香を抱いていた。あまりの悲しみに蔡信でさえ呉起が狂ったのではないかと思った。失った者の大きさに呉起は数日何も出来ずに部屋に籠もった。
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by shou20031 | 2005-02-05 15:32 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子 Vol.14 呉起将軍誕生

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「何故我々が稲を刈り取りに来る事がわかったのだ」
 里克(りこく)は鄆(うん)の城で傷の手当てを受けた後に呉起に尋ねた。完膚なき敗北に里克の頭は呆然自失状態であった。里克は何故負けたのかそれを知りたかった。
「斉の国の農作物の情況を調べました。魯の国のよりも旱魃が酷く、収穫が昨年の半分以下と報告を聞きました。領主としては不足分の穴埋めをしなければなりません。我々の収穫物が奪われると予想して対処していただけです」
「それにしても鮮やかな采配であった。我々は迎え撃たれるとは予想もしていなかった」
「それは、私が鄆の民を守る事しか考えていないからでしょう」
「私の村とは川を跨ぐだけなのになぜこれほど、稲の出来が違うのだろう」
「私は昨年から一度も兵を動かさず、田畑の治水事業を専らに行ったからです」
「そなたの徳は私の武に勝るようだ。これからは私も徳を積むようにしよう」
 里克はそう言うと納得したのか、傷を労わるように横たわって眠た。

 『鄆の守備隊、斉将里克を捕らえる』の知らせは曲阜の宮殿で瞬く間に噂となり呉起の名前が囁かれた。
 呉起は里克の傷が癒えると、捕虜として曲阜の宮殿に連行した。捕虜と言っても、大夫(貴族)である里克は縛られる事もなく馬車に乗って曲阜に向った。
 呉起の元公への戦勝報告に里克も捕虜として証言した。
「呉氏の徳は私の武威を上回ったのです」
 元公からなぜ負けたのかと問われて里克は答えた。元公の脳裏にいつまでも里克の言葉が残っていた。

 その後、斉の国に里克の身代金が請求されると、里克の一族によりただちに身代金は支払われ斉に帰国した。
 呉起は不作で困っている里克の砦に米五百石を贈った。里克がこれ以降二度と呉起の守る国境を侵すことはしなかった。

 呉起が曲阜から戻って李香と久しぶりに寝台をともにした。呉起が李香を抱き寄せると、何か言いたそうに恥らっていた。
「どうしたのだ」
「あの。お話があります」
「なんであろうか」
 呉起が早く話すように急かしても、なかなか答えなかった。
「子供が出来たようです」
「本当か。私も親になるのか」
 呉起はあまりの嬉しさに李香の体を強く抱いた。自分にも子供が出来ると思うと呉起の生活に新しい希望が生まれた。

 呉起は荒れている田畑を見つけては金を出して耕させ、新たに耕作地を開拓する者には開拓した土地の税を三年間免除した。更に華元に対して荒れている水路を整備させ、運送の便を良くさせた。

 その年の暮に李香は可愛い女の子を産んだ。
「男の子でなくて申し訳ありません」
 李香は嫡子とならなかった事を詫びた。
「そなたに似た可愛い子だ。男の子は次の楽しみとしよう」
 呉起は李香の枕元で寝ている子供の顔を見て言った。
「淑と命名しよう。呉淑良い名前だ」
 呉起はまだ目も開かない赤子を抱いて嬉しそうに言った。

 呉起が鄆に着任して五年で、斉と国境を接する他の街は度重なる争いで疲弊しているにも拘らず、鄆の街は豊かになっていた。
 魯の国の政治は三桓子(季孫氏、淑孫氏、孟孫氏)とその一族に専横され、元公さえも三桓子の意向には逆らうことが出来なった。元公は何とか三桓子の力を削ぐ大夫を捜していた。
 鄆を治めて五年呉起の評判は良くなるばかりだった。元公は呉起を曲阜に呼び、呉起の功労を賞して、新たな食邑を贈った。曲阜に屋敷を賜り小司寇(警察庁次官)となった。呉起は自分が三桓子に対抗する勢力の布石となったことは知る由もなかった。

 曲阜の街も帝丘と同じで度重なる戦の為か、やくざが多く治安が良くなかった。呉起は以前賊曹掾であった時の部下を集めて、曲阜の街の治安の維持に努めた。
 司寇である李遠は高齢で病気がちであった為、宮廷の閣議にも出席するようになり、呉起はしばしば元公から意見を聞かれた。

「斉の国が魯を攻めようとしています。張疋殿が斉の閣僚から直接聞かれたそうです」
 呉起が宮廷から戻ると、斉の張疋のもとで学問を学んでいるはずの許駿が旅装も解かないで待っていた。
「斉が魯を攻める理由は何なのだ」
「魯の盗賊が斉の国で荷駄を襲って魯の国へ逃げ込んでいると申し入れたにも拘らず、魯は一向に盗賊を討伐していないので、斉軍によって魯の盗賊の討伐する為に侵攻するそうです」
「私が小司寇に任命される前に、斉の司寇より魯の盗賊が斉で盗賊を働いておるので取り締まって欲しいと申し入れがあったと聞いている」
「魯の国は盗賊を放ち斉の富を奪っておると斉の田氏の一族田頼(でんらい)が騒いでいるのです。田頼は斉軍を動かして弱国魯を撃って己の名前を上げようとしているだけです。田頼は魯に攻め込める大義がれば何でもよいのです。田氏が宰相になって斉には人がいなくなったと、張疋殿は嘆かれていました」
 よほど根を詰めて学んだのか許駿は以前よりも痩せて精悍な顔となっていた。
「斉に使者を送っても無駄か」
「時間を稼ぐことが目的であれば」
「田頼の悪い噂を流す事で戦を防げないだろうか」
「既に斉の宮廷では魯を撃つことが決定されています。田頼が駄目なら新たな将軍が命じられるだけでしょう」
「斉軍の動員数はどのくらいになる」
「三軍が動員される予定です」
「攻撃の時期はいつ頃であろうか」
「収穫を終えた後ですから早くても十月末でしょう」
「あと三月か」

 呉起は翌日宮廷の閣議に出席する前に司寇の役所に出て、斉の宮廷内の間諜に対して斉軍の動向を知らせるように指示を出した。
「この秋に斉軍が魯を攻めると言う噂があります」
 呉起は許駿のもたらした情報を閣議で報告した。
「いい加減な噂を取り上げるな。斉が魯を攻める理由などない」
 宰相の季亮子が閣僚でもない呉起の発言を咎めるように言った。
昨年末斉が突然魯の国境を侵してきて、何とか城を一つ斉に譲る事で和睦したばかりであった。その交渉を行ったのが季亮子であった。

「昨年、斉の司寇より魯の盗賊が斉の国内で荷駄を奪って魯に逃げ込んでいるので捕まえ欲しいとの申し入れがありました。魯が盗賊を討伐しない為、依然斉の国内では盗賊が跳梁して入るので、斉は軍を派遣して盗賊を討伐すると言う名目です」
 呉起は顔色一つ変えず話した。
「言い掛かりも甚だしい。そもそもその盗賊は斉の国の盗賊だったと言うではないか。斉の国で荷駄を襲っている盗賊をどうやって魯の兵が捕まえるのだ」
 季亮子は怒りを呉起に向けて爆発させた。
「宰相が言われる通り、これは言い掛かりです。魯は斉の将軍達が名声を上げる猟場と化しております。この度は斉の宰相田荘子の一族田頼が己の名前を高めるために、魯を攻める理由を作り上げたのです」

「その噂は確かなのか」
 呉起と季亮子のやり取り聞いていた元公が言った。
「まず。間違いないと思われます」
 呉起の自信に満ちた言葉を聞くと閣僚達から思わず重いため息が吐かれた。
「呉起よ。田頼の率いる斉軍の兵数は」
「三軍と思われます」
「季亮子よ。今魯で集められる兵数はいくらだ」
「一軍がせいぜいかと」
 季亮子の声がだんだんと小さくなって行った。

「誰か。一軍で三軍を迎え撃つ者はいないか。和睦しても一城や二城を奪われるのだ。斉軍に勝った者には二城を贈るぞ」
 元公はそう言って閣僚達の顔を見た。しばらくの間、応える者はいなかった。
「我こそはと言う者はいないのか。ならば私が指名する者に指揮を執らせても文句はあるまいな」
 元公は再度念を押すように皆の顔を見廻した。やがて元公は呉起を見詰めた。
「それでは、呉起を将軍とする」
 元公はそう言うと閣議を終えた。閣僚達は驚きの声を上げる者と自分が指名されなかった事に安堵のため息をつく者と様々であった。呉起は雷に打たれたように席を立てずにいた。

 呉起は家に戻ると許駿を呼んだ。
「今日の閣議で私が斉軍を迎え撃つ魯の将軍に指名された。疲れているところ済まぬが、兵の質から輜重隊の数まで出来るだけ斉軍の情報を集めて来てくれ」
 呉起は許駿と部屋を出ると、家人を呼び集めた。
「今日、元公より斉軍を迎え撃つ将軍に指名された」
 呉起が感情を抑えた声で言うと、帝丘から一緒に来た者達が喜びの声を上げた。
「斉軍は三軍で攻めて来る。私に与えられる兵は一軍に過ぎない。誰かこの戦いを勝てる妙案を持つ者はいなか」
 呉起はそう言うと喜び叫んでいる友を静かに見つめた。
「これが私が将軍に選ばれた理由だ」
 呉起は呟くように付け加えた。呉起の言葉を聞くと皆が浮かれ喜んだ事を恥じて口を閉ざした。

「良く聞いてくれ、この度の戦いもこれまでの戦いもそれほど違いがあるわけではない。三倍の数の兵であろうが、恐れる事はないのだ。勝つ必要などない。負けなければ良いと思えば様々な作戦を考えられる。我々の勝手知る土地に踏み入る敵に一泡吹かせてやろうではないか」
 呉起は静かにではあるが自信を持って語った。
「船の事は俺に任せてくれ。真っ暗な夜でも敵の後ろに着けてやる」
 華元は呉起の話を聞いて仲間の船頭達と工夫した技を言った。
「弓に工夫を加えて、一度に二本の矢を飛ばせるようにしたぞ」
 李克は弓師達と工夫を加えた弓の事を言った。
「三軍だろうが、夜襲の噂を撒き、睡眠不足にして、戦う体力も気力も奪ってしまえば何万の兵も恐れることはない」
 超耳は噂を拾い集める仕事をしながら考えていた事を言った。
「体の大きな兵を集めて前面に出し、敵を恐れさすのはどうであろうか」
普段寡黙な蔡信までが意見を述べた。
「皆がそれぞれ新たな作戦を考える事が出来れば、我々は常に相手の目を惑わす変化に富んだ作戦を取れる。敵は何日もかけてやって来る。疲れさせ、戦に飽きさせてしまえば、我々の勝利だ」
 戦う集団が出来つつあった。呉起は若い時のように己の才に溺れず、皆の個性的な意見を纏めることにより、敵が予想もしない作戦を纏め上げようと考えていた。

「我々に勝利を」
 蔡信が立ち上がって大きな声で叫ぶと皆が一斉に声を上げた。
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by shou20031 | 2005-02-04 20:37 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.13 鄲(うん)の大夫

「長年商人どもを悩ましていた盗賊を討伐した功により鄆(うん)の大夫に命ずる」
 宮殿の行事を司る官吏が呉起の大夫への任命書が読み上げると広大な宮殿にその声が響いた。呉起は俯いたまま厳粛な雰囲気に飲まれてそうになっている己を自嘲した。
「呉起殿。お上は鄆の街を守るに当たり、呉起殿の考えをお聞きしたいそうです。」
 顔を上げ、鄲の街の領主として印綬を受け取ろうとすると、陶固がそこに立っていた。曾参の推薦を受けて宮廷に職を得たと聞いていたが、突然の再会に驚いて見つめた。陶固は呉起と視線を合わそうとはしなかった。

「鄆の街は河川に近く、斉の侵略を受けるよりも河川の氾濫を受けるほうが多いようです。まずは治水の管理と民心の安定を第一と致します」
「斉の軍隊が攻めてきた場合はどういたす」
 元公は苛立ったように自ら呉起に尋ねた。
「鄆の街の城壁は既に高く、斉の軍が一師であれば城門を閉じて迎え撃ち。一軍であれば城門を硬く閉じて籠城し、曲阜からの援軍を待ちます」
「なるほど、鄆は守るべき城という事か」

「鄆を守る兵士は1旅(五百人)と聞いております。攻めるには難く、守るに適する兵数でしょう。およそ兵を動かすには、一伍の兵は一刻で動かせますが、一卒で一日、一旅で三日、一師で十日、一軍で一月の準備が必要となります。普段から斉の国内に密偵を放っておけば、斉軍の動きは事前に知る事でき、城を守る準備を行えます。したがって斉軍に攻められて鄆の街を守る事はあっても、決して奪われる事はありません」
「呉起よ。良くわかった。鄆を守れ」
 呉起の答えに満足されたのか元公が明るい声で言った。

「ここでお会い出来るとは思ってもいませんでした」
 任命式が終えると、呉起は陶固に懐かしく話しかけた。
「大夫への昇進、おめでとう御座います」
 以前の陶固とは違い、よそよそしい感じで言った。
「陶固殿こそ、ご栄達おめでとうございます」
「私はあなたの代わりにここで職を得ただけです」
 呉起の様子を伺うように、陶固は身を硬くして言った。
「陶固殿。私は儒官には向かない人間だったのです」
 呉起は陶固に会った事で、それまで心のどこかで拘っていた曾参への思いを断ち切ることが出来た。
「呉起殿、私を許してくれるのか」
 陶固は呉起の言葉が本音であるか探るような目で見た。
「陶固殿。師の人を見る目は確かだったのです」
 呉起はそう言うと宮殿を後にした。呉起は身を窄(すぼ)めるようにしている陶固の姿を見て、儒服を纏い、咳きをするのさえ憚る堅苦しい宮殿の中で粛々と進められて行く様々な行事に参加したいとは思わなかった。

 家に戻ると李淵と李香が笑顔で呉起を待っていた。
「いよいよ大夫になられたそうで、おめでとうございます」
 李淵が呉起に祝いの言葉を述べた。李香は一年振りに会う呉起を眩しそうに見つめていた。呉起は李香の姿を見るとこれまで激しい戦いの中で緊張していた心の糸が少しずつ解けて行くような気がしていた。
「今日は呉起殿に祝いの品をお持ちできました」
「ありがとうございます」
「李香をお側に置いていただきたく参りました」
 李淵が恥らっている李香を押すようにして呉起の前に立たせた。
「李淵殿、必ず李香殿を幸せにします」
 呉起は一年前に交わした約束を李香が忘れないでくれて胸が熱くなっていた。
「そう言っていただけると、この李香を連れてきた甲斐がありました。そう。そう。張疋殿のところからもう一人預かって来たのを忘れるところでした」

「おお。快ではないか。見違えたかと思ったぞ」
「呉起様。大夫にご昇進おめでとうございます」
 背が伸びて見事な若者に成長した快が久し振りに会う呉起に緊張しながら言った。
「立派になったな。学問は進んだか」
「はい。張疋殿に兵法の手ほどきを受けました」
 快は希望に目を輝かせて言った。呉起は快を部屋に呼んで早速仕事を頼んで臨淄の許駿の所へ向わせた。

 呉起は鄆の街へ向う前夜、家人のみで李香との慎ましやかな婚礼を行った。帝丘の街を出て五年の月日が過ぎていた。蔡信や超耳、華元、李克は酒を飲み歌を唄って二人の結婚を祝った。
「李香よ。私はそなたを見た時から妻にするならばそなたのような女と決めていた。今その願いが叶うことができた。私はそなたを妻として幸せにする事を誓う」
 呉起は二人で寝室に入ると改めて李香に言った。
「私こそ、夢が叶いあなたの妻となる事が出来ました。これからはあなたの妻として恥ずかしくないように励みます」
 李香は呉起の誠実な言葉が嬉しくて、思わず涙を流してしまった。
「何を泣くのだ」
 呉起は李香の体を引き寄せて尋ねた。
「この幸せがいつまで続くのか怖いのです」
 李香は呉起の腕の中で泣いていた。やがて泣き声はため息に変わり、李香の指が呉起の背中に爪を立てる頃には喜びの声となっていた。

 呉起は曲阜から歩いて三日の鄆の街へ赴任した。当時の行政単位は五戸を一単位として伍と呼び、伍を二つ組み合わせて連と呼び、五連で暴を構成する。五暴で(250戸)で郷を構成し郷長を置いた。4郷で都とした。鄆の街は都として扱われていた。一戸当りの8名の家族とすれば人口8千人の街である。
 鄆の街の郊外は沂川や泍川などが何本も流れ込み、複雑な地形をしている場所であった。

 呉起は斉の国に戻した快の働きで魯に対する大掛かりな攻撃がないとわかると、兵士の調練よりも、耕作地への治水事業に力を入れた。河沿いの稲作に適した土地の治水事業に力を入れて、邯鄲の馬昆から鉄の農機具を買い入れて米の収穫を図った。
 やがて、斉の国の田氏を真似て穀物の種を無利子で貸し付けた。李香は無料の学塾を開き子供達への教育に力を入れた。呉起は将来兵が自分の考えている通りに動いて貰う為、まず領民に対して人気取りを行った。その年は天気にも恵まれ、河川の氾濫することもなく豊作となった。

 その年の収穫を終えると呉起は大規模な軍事演習を、祭りのように行った。兵を白軍と赤軍に分け両軍による模擬演習を行った。勝利に功績のあった者に農具や布を与えた。呉起は鄆の街に着任して一年で領民に慕われるようになっていた。

 斉の兵士による国境での小さな争いは一年目もあったのだが、呉起は軍事的行動を一切取らないでいた。斉の国境の砦の大夫、里克(りこく)が新しい鄲の街の大夫がどのように対応するのか。それを見る為に挑発行動を行っていることは快のもたらす知らせでわかっていた。やがて図に乗って大規模な攻撃を仕掛けて来るのを呉起は静かに待っていた。

 翌年、春先から天候が思わしくなく、雨が少なかった。夏になると暑い日が続いて雨が降らず旱魃となった。
「里克が鄆の収穫前の稲を刈り取る為に兵を動かすようです」
 快自らが鄆の城を訪れて呉起に知らせた。
「いつ頃に来る」
 呉起は領内の見廻りで日焼けした顔で尋ねた。蔡信、超耳、華元、李克も同席させ快の知らせを聞かせた。
「あと五日以内でしょう。それ以上遅ければ鄆の農民が稲を刈り取ってしまいます」
「兵の数は」
「兵三旅千五百、刈り取りの農民三千」
「それでは斉の砦が空になる」
「斉の旱魃は酷く、米の収穫は昨年の半分以下と思われます。食料確保するほうが大切なのでしょう」
「俺に百名の兵を与えてくれれば、船で斉の砦を襲って来る」
 華元が快の話しを聞いて言った。
「鄆の兵は五百人だ。正面から斉兵と戦えば負ける」
 李克が腕を組んで言った。
「それを承知だからやって来るのだ」
 超耳が大きくため息をついて言った。
「今度の斉の攻撃は米を盗む為で、戦をしに来る訳ではない。ならばだ、農民に兵士の姿になってもらい、我々の後ろで大声と旗振りをしてもらったら何とかならないか」
 蔡信が何か考え続けている呉起の顔を見て言った。

「超耳、快と共に斉兵の動きを監視してくれ」
 考えがまとまったのか呉起が話し始めた。
「皆の言う通り、斉兵の目的は米を盗む事だ。一年の間斉兵の挑発に乗らなかった我々を舐めているのだ。ならば我々の真の力をお見せしよう。一旦斉兵を魯の領内に引き入れ、後方から襲いかかる。その為に華元、船を用意してくれ。斉兵が米を盗みに魯の領内に入り稲を刈り始めたら、私は兵二百と農兵で正面から数で敵を威嚇する。蔡信は兵百を率いて敵の脇から攻撃する。華元は李克と兵二百を船に乗せて敵の後ろから攻撃する。必ず退路を一箇所開けて、農民は殺さずに逃がしてやれ」
 呉起は皆の意見をまとめた作戦を話した。

「問題は斉兵がいつ稲を盗みにくるかですね」
 快がこの作戦の要を指摘した。
 呉起は三日後作戦の打ち合わせを終えると、陽動作戦を始めた。守備兵と農民を繰り出して、国境の稲を一斉に刈り始めた。その日の夕方、斉の砦で慌てて兵を出す準備をしている事を快が告げてきた。斉兵は呉起の思い通りに動き出した。
  呉起は翌日の朝からも稲刈りを行い、斉兵の姿が見えると農民と共に慌てて逃げた。

 日が高くなって来た頃、斉兵に守られた農民が稲穂を刈り始めようとした時、突然、鉦や太鼓が打ち鳴らされ、斉の兵士に倍する農民の化けた魯の兵士が見事な旗を靡かせて現れた。
 斉兵が農民を守る為に隊列を整えていると、今度は斉兵の脇と後方から太鼓が打ち鳴らされ、魯兵が現れ、刈り取った稲穂に火を放った。斉兵の後部にいた農民は恐怖に陥って逃げ迷い、隊列に入り込んだ為に斉兵は混乱に陥った。

 呉起は兵に矢を射させ、旗を振り大声を上げて兵を前進させると、後方の華元に退路を空けさせた。
 農民達は羊の群のように退路を見出すと我先に逃げ出した。農民達の恐怖心が兵士にも伝わり、斉兵は雪崩れのように隊列を崩して逃走を始めた。

 呉起は斉の大夫である里克が逃げ遅れているのを見つけると、袋の紐を絞るようにして退路を断ち、弓矢による攻撃を行わせて、最後には傷付いて倒れた里克を捕らえた。魯兵に里克が捕らわれた時、日はまだ高々と頭上にあった。


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by shou20031 | 2005-02-03 15:27 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.12 新たな道

「実は魯の司馬長史(国防次官)より曲阜(きょくふ)の街道の警備に関して意見を聞かせて欲しいとの言って来ているのだ。俺は貴人の前で話すのが苦手だから困っていたのだ。俺の代わりに話してもらえないだろうか」
「蔡信。これは仕官の話しだろう。どうしてもっと前に話さなかったのだ」
「おまえは学塾で忙しかっただろう。仕官と言っても下っ端役人だ。俺は面倒臭いことは苦手だからな。こう言う話しはやはりおまえに任せないとな」
 蔡信はこの話がいかにも面倒臭そうに言った。呉起は蔡信の思い遣りに自分の鬱屈していた気持ちが解けていくのに気がついた。
 これまでは呉起は自分の能力に人一倍の自信を持っていた。ところが、こうなって見ると、自分はいつでも周りの人間に支えられて来たことが痛いほどわかった。
 ほんの少し物覚えが良いのを鼻にかけた嫌らしい自分が見えて来て、己を恥じた。呉起は蔡信が下っ端役人と恥じる話に眼に溢れてくるものを堪えて有難く乗ることにした。

「蔡信殿に出来るのに、何故魯の国の兵隊では山賊、盗賊を取り締まれないのだと、曲阜の商人たちに責められて困っておる」
 呉起は蔡信と魯の司馬長史の孟牧(もうぼく)の屋敷を訪れた。
「魯の兵隊は盗賊を取り締まるのに、わざわざ前触れをしてるようなものだと商人に笑われました。確かに何度も取り締まりの部隊を派遣しても盗賊の被害は減らないのだ。蔡信殿は盗賊に詳しいところで、何か妙案はないだろうか」
  孟牧は魯の大夫には珍しく偉ぶることもせずに、年下の呉起らに気さくに話しを始めた。

「蔡信は話しが不得手なもですから、私から申し上げます。兵士には盗賊を取り締まろうとする強い気持ちがないからです。まず盗賊を捕まえた場合の恩賞を篤くすることでしょう。盗賊の情報提供者にも恩賞を与えることです。次にその情報を元に隠密行動を専門とする部隊で取り締まれば、ある程度の成果は得られるでしょう」
「さらに盗賊を一掃する為にはどうしたものだろうか」
「盗賊の出る場所は険しく、貧しい地域で、彼等はその土地を追われた流民達です。盗賊の出没する土地を調べ、税を軽くすることで、民が土地を離れる事を防ぐことが大切です。山賊、盗賊の数はその国の行政の表れです。民に篤くすれば少なく、過酷であれば、多くなります」
「つまり、魯の国に盗賊が多いのは政事が悪いからと言うのか」
 孟牧は呉起の言葉に僅かに顔色を変えた。

「いいえ、盗賊はただ取り締まるだけでは一掃する事が出来ないと申し上げているだけです」
「なるほど、そなたが盗賊を取り締まるとすればどうする」
「まず、盗賊を働いた者はただちに打ち首にして晒し、その罪の厳しい事を知ら示します。その次に、盗賊であっても情報を提供し悔い改めた者には恩賞を与えます。各街道筋に何名かの間諜を置いて、情報を集めれば盗賊は三年の内に半減するでしょう」
「蔡信殿、私の下で賊曹掾(ぞくそうのじょう)として仕えるつもりはないだろうか」
 賊曹掾とは魯の軍体内での盗みを取り締まる中士の役職だった。
「有難い申し出ですが、私は友である呉起の下以外では働くつもりがありません」
 それまで黙っていた蔡信が一言ずつ吐き出すように言った。
「蔡信を雇わんと思えば呉起を雇えか。改めて聞くが、呉起殿。私に仕えてみないか」
 呉起は学塾を破門されてことで、行政官としての夢を叶えることは出来なかったが、蔡信の力により、やがて大将軍と呼ばれる、軍人の道の第一歩を歩むことになった。

 呉起に与えられた兵士は僅かに一卒百名であった。
「まさか、こいつらで魯の国の盗賊を取り締まれと言うのか」
 蔡信は目の前にだらしなく並んでいる兵士を見て言った。
 呉起は賊曹掾として、各地を守る部隊に盗賊の情報を集める依頼をしたが、まったくと言って有力な情報は得られなかった。賊曹掾とは軍隊内部での取り締まる嫌われ役で、新任の賊曹掾に一体何が出来るのかと言う冷たい反応だった。

 呉起は超耳に盗賊の情報を集めさせ、華元と李克を両長として、蔡信による兵士の再訓練を手伝わせた。
 蔡信は格闘術の訓練と称して、部隊での喧嘩の勝ち抜き戦を行い、自分の強さを見せつけた。兵士達は蔡信の強さを目の当たりすると不本意でも命令に従うようになった。
 朝は日の出から夜は日が暮れるまでの激しい訓練に文句を言う気力も失って兵士達は倒れ込むように眠り込んだ。やる気のなかった兵士達の顔は、やがて日焼けした精悍な顔つきになっていた。

 呉起は蔡信が猛訓練を行っている間、孟牧と何度も打ち合わせを行い、盗賊を討果たした者に金百両、有力な情報をもたらした者には金五十両の賞金を与えると曲阜の城門に高札を掲げた。

「これより我々は盗賊の討伐に向う。すでに高札を見た者もいると思うが、盗賊に懸けられた賞金は我々が討ち果たした場合でも支払われる」
  呉起が賞金の事を伝えると蔡信に鍛え直された兵士達は目を輝かせて、喜びの声を上げた。

  荷駄の警護で通いなれた曲阜から臨淄への街道の盗賊を討伐する為、密かに街道筋の山岳地帯に潜伏して、僅か百人の部隊で盗賊を討伐した。
  囮の荷駄を用いて盗賊を待ち伏せしたり、夜間真っ暗な獣道を這いずるようにして盗賊のねぐらを襲った。軍服は血と汗にまみれ異臭を放っていたが、呉起の心は儒学を学んでいた時の迷いは消え去っていた。
  毎日戦う事に疲れて倒れるようにして眠る事に満足していた。やがて盗賊達も追われている事に気付き、罠を仕掛けたり、待ち伏せ攻撃をして来た。呉起は盗賊達との戦いで傷付いた者の手当てをしたり、歩けない兵士を背負い、険しい山岳地帯で戦い抜いた。

  三ヶ月後、曲阜の城門の前では捕らえた盗賊の首が役人の手で次々と打ち落とされた。街の人々は城門に晒された余りにも多くの首に恐怖した。やがて曲阜の街では盗賊を討ち取った賊曹掾の呉起の名が有名となった。

  盗賊との激しい戦いに勝利した呉起の部下達は、手にした賞金で浴びるように酒を飲み、かつては嫌われ者だった自分達の部隊の名を誇らしく叫んでいた。
  呉起は盗賊を掃討した功績に対して賊曹掾から参軍に昇進した。中士から上士となったが、部下は僅かに一卒増え二百名だけであった。呉起は一層兵を鍛錬し、能力の高い人材を昇格させ、隊内の身分制度を明確にし、命令の伝達を徹底させ、賞罰の基準を明確にした。

  半年後、曲阜と衛の都、帝丘を結ぶ街道筋の盗賊達の夥しい首が打ち落とされ、城門の前に晒された。曲阜の人々は晒し首を見る事に飽き、呉起の名前に震えた。
  一年後、宋の都、商丘を結ぶ街道筋の盗賊達が捕らえられ、城門の前に首を晒された。呉起は賊曹掾に就任して僅か一年で曲阜からの主要な街道筋の盗賊を討伐してしまった。曲阜の街で呉起の名を知らぬ者はいなかった。

「これほどに盗賊を討伐してくれるとは思わなかった。曲阜の街でそなたの名前を聞かぬ日はない」
  孟牧は呉起と蔡信を屋敷に招いて歓待した。
「今では兵士達は盗賊を討伐する事に対して誇りを持っています」
  呉起は最悪の兵士を与えられた皮肉を言った。
「良い知らせだ。そなたの名を元公が耳にされたらしく、斉の国境に近い鄆(うん)の街の大夫に命じるようにとお言葉があって、そなたに親問が行われる事になった」
  鄆の街は斉との国境にあり斉兵との争いの耐えない街であった。盗賊の討伐に功績のあった呉起に、守るに難しい鄆の街の大夫にとは妙案であった。士まで給与は穀物で支給されるが、大夫となると禄高に合わせた食邑が与えられる。例え下大夫といえども呉起は初めて領主となった。
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by shou20031 | 2005-02-02 21:10 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.11 破門

c0039644_20291725.jpg 超耳達が荷駄の警護で臨淄へ向ったのと入れ替わりに、李淵と李香が踊り子を連れて呉起の家を訪れた。
「お久しぶりで御座います」
 一年振りに会う李香は以前のようなあどけなさが抜け、匂うような女を感じさせた。
「一段と美しくなられましたね」
 呉起は胸の高鳴るのを押さえて、眩しそうに李香を見て言った。
「呉起様こそ一段と頼もしくなられて、随分と曲阜の女子を泣かせておられるのでしょうね」
 李香が拗ねるように呉起の顔を見て言った。
「呉起殿。李香の失礼な言葉を許してくれ」
 李淵が呉起に李香の不躾な言葉を謝った。李淵には李香のいじらしさが哀れであった。

「張疋殿はお元気ですか」
 蔡信が気を使って話題を変えた。超耳達は踊り子達と楽しげに話し込んでいた。
「子供達の面倒を見るようになって、かえって若返ったようだ。許駿殿が臨淄の心配は無用 だから、呉起殿には曲阜での学問に精進してくれとの事だ」
「そうですか。皆のお陰で私の学問のほうもだいぶ進みました」
 呉起は久しぶりに会った李香の美しさに心を奪われていた。
「呉起殿、あまり学問に根を詰められると体を壊しましますぞ」
 李淵はそう言うと呉起の耳元で囁いた
「呉起殿にこの老人から頼みがあるのです」
「私で出来る事であればいいのですが」
「李香はあなたを慕っております。あなたには大望があることも知っておりますが、それ故、私はあの孫娘が哀れでなりません」
 呉起は李淵の言葉を驚いた。

「おじい様心配なさらなくとも、呉起様はきっと曲阜の女子と生き抜きをされています」
 李香が卓に料理を持って来て呉起を睨むように言った。
「蔡信。私は学問でそれどころではない事を李香殿に言ってくれ」
 呉起は李淵の言葉に動揺していた。
「わしは、呉起が塾に出かけているとばかり思っていたのだが」
 蔡信は呉起が普段見せたことがない困った顔が可笑しくて笑った。
「ほら。やはり呉起様はどこかで綺麗な女子と息抜きをされているのです」
「おい。蔡信。疑われるような言い方はよせ。私は塾とこの家の間の道しか知らない」
 呉起は李淵の言葉で動揺している気持ちを落ち着かせようとして、むきになっていた。
「李香よ。いい加減にしなさい。呉起殿は本気で困っておる」
 李淵がそう言うと、真っ赤になっている呉起の顔を見て、李香と蔡信が笑い出した。

「まるで婚礼のように華やかだな。私も席に加えて貰えるだろうか」
 陶固が酒瓶を提げてひょっこりとやって来た。
「これは陶固殿。どうぞお座り下さい」
 呉起はそう言うと立ち上がって陶固に椅子を勧めて、李淵と李香を紹介した。
「呉起どのは斉の舞踊団の方々までご存知なのか」
 陶固は李香の美しさに目を奪われていた。
「盗賊に襲われた時に呉起様とここに居られる方達に救われたのです」
 李香が呉起の顔を愛しそうに見ているのに陶固は気が付いた。
「ほう。それはまた勇ましい話ですね」
「そのおかげで、呉起様達は十人以上のやくざに襲われたのですが、蔡信様と一緒に見事に討ち果たしたのです」
 李香は呉起の強さを自慢げに話した。
「とんでもない。もう少しでこちらが危ないところでした」
 呉起は李香が大袈裟に陶固に話すので困って言った。

「李香殿の舞はさぞや美しいでしょうね。一座の興行はいつからですか」
 陶固が李香の気を引こうと言った。
「明日からです。ぜひ皆様で見に来て下さい。でも呉起様はお美しい方と学問の息抜きでお忙しいでしょうけれど」
 李香はそう言うと陶固に微笑んで酒を注いだ。
「このように美しい女性も金も労せずして手にはいる呉起殿が羨ましい」
 陶固は纏わりつくような視線を李香に注いだ。呉起はその時、陶固が怒りに近い嫉妬に身を焦がしている事に気が付かなかった。
 陶固は酒に酔った勢いで李香を無理やり抱き寄せようとして彼女に顔を打たれた。陶固はそれに懲りずに他の踊り子に抱きつこうとして、蔡信に押さえ込まれたまま寝込んだ。その日陶固の鬱屈した思いが酒を飲んで一度に出たようだった。

 李淵は最後まで呉起があれほど一所懸命に学んでいた兵学を棄て、儒学を学ぶのか責めなかった。むしろ責められぬ事がかえって呉起の心を苦しめた。それは張疋や李淵のように学問を生活の糧や出世の踏み台にしてこなかった人間の大きさなのだろう。
 李香は一座が曲阜の街で興行している間、呉起の家を訪れて楽しそうに炊事や洗濯をして行った。呉起は李香と二人になるとかえって意識してしまい気軽に言葉を交わすことも出来なくなってしまった。それでも李香は毎日幸せそうにやって来た。

 曲阜を離れる前の晩、李香が一人で呉起の部屋を訪れた。
二人は言葉もなく見詰め合い、行灯の芯が燃える音だけがしていた。静かな夜の時間が更けて行った。
「李香どの、私はまだ、職もない塾生なのだ」
 呉起は静けさを破るように言った。
「呉起様、私は旅の舞妓なのです。今夜だけ呉起様の隣で寝させて下さい」
 風が揺らぎ、行灯の芯が瞬いて消えた。
「明かりをつけないで下さい」
 呉起の腕の中に柔らかな肉体が投げ出された。呉起は壊れてしまうような李香を抱きしめた。
「ああっ」
 李香が漏らしたため息が、押さえていた呉起の本能を解き放った。
「この次に曲阜に来る時は、私の妻であると、李淵殿に伝えてくれ」
 二人の夜は静かに更けて行き、部屋の中に衣擦れの音と李香のため息だけが聞こえた。
 翌日、李香の一座が曲阜の街を離れて行った。

 やがて呉起が曾参の学塾に学んで二度目の新年を迎え、呉起の席次が首席となった。しかし呉起は儒学を学べば学ぶほど、己が求めているものから遠ざかっている気がしていた。
「また、後から入って来た者に抜かされたようだ」
 陶固は新年の席次の発表の後に呉起の姿を見つけて言った。
「呉起殿。すまぬが金を少し用立ててくれまいか」
 陶固は呉起の体に擦り寄ると耳元で囁いた。
「陶固殿。お断りいたします。私は金貸しではありません」
「呉起殿。そこのところを何とかしてもらえまいか。あなたはやがて栄達して行くが、ここに取り残される者の気持ちを考えて貰えないだろうか」
「陶固殿。我々は塾生の見本にならなければいけないのです。塾生同士の金の貸借は禁止されております」
 呉起は以前超耳が言った言葉を思い出していた。
「呉起殿。首席ともなると言われることがちがいますな」
 陶固は呉起の言葉に顔色を変えて言った。

「母上の具合が悪いと聞いたが、帰らなくてよろしいのか」
 陶固はどこから耳にしたのか呉起の想い悩んでいる事をついてきた。
「母上との約束がありますので」
「そうであった。呉起どのは大臣になるまでは何があろうと母上とお会いにならないのであったな」
 陶固はわざと他人に聞こえるように言った。
「呉起殿。魯の国から先生に塾生を一人推薦するように依頼が来ているそうです。先生は孝に厳しい方だ、気をつかれたほうがよろしい」
 陶固はそう言うと呉起をへこまして気を良くして去って行った。呉起は陶固の後ろ姿を見て大きく溜息をついて家に戻った。

「呉起よ。母上が亡くなられたそうだ」
 許駿が臨淄から知らせに来ていた。
「そうか」
 呉起は許駿の言葉を聞くと力が抜けたように椅子に座った。
「母上は亡くなられた時に、お前の学問の邪魔になるから、おまえには知らせるなと言われたそうだ」
 呉起は俯いたまま泣いていた。母の想いを聞くと、子として親が病に伏しているのに、看病にも行かず、亡くなって葬儀にも行かない己を恥じていた。

 翌日呉起が学塾へ行くと、師の曾参の部屋に呼ばれた。
「魯の宮廷より司寇の役人として塾生を推薦せよと、ご沙汰がきておるのだ。私はそなたを考えていたのだ。ところがそなたは母上が病気であるのに、看病にも帰らないと聞いたのだが本当か」
 老齢の曾参は静かに呟くように話した。
「はい。それは誠です」
「なぜ。母上の看病に戻らないのだ」
「母との約束だからです」
「呉起よ。私はそなたに何を教えて来たのだろうか。早く母上の元に行くがよい」
「師よ。母は既に亡くなりました」
「呉起よ。すぐに戻って母上の喪に服しなさい」
「師よ。母との約束なのです。私は親への孝よりも、母との約束を守りたいのです」
「呉起よ。それはそなたの考え違いだ。私はどうやらそなたを見損なっていたらしい」
 曾参の言葉が呉起の心を抉った。曾参の惜別の言葉であった。
「師よ。長い間お世話になりました」
 呉起はこれまで世話になった礼を込めて、長い間頭を下げて曾参の部屋を辞した。曾参は小さく頷いて呉起を引き止めなかった。

「何かあったのか」
 呉起が俯いたまま何も言わずに家に戻って来たのを見た蔡信は心配になって尋ねた。
「私は学問には向いていないようだ」
「首席になろうとしているおまえが、何を言っているのだ」
「曾参殿の塾を破門になったのだ」
「どうして破門になったのだ」
「師の教えに背いたからだ」
「母上の事か」
 蔡信は言葉を失った。
「母上との約束であった事を伝えたのか」
 蔡信は呉起に確認するように尋ねた。
「母との約束で葬儀にも戻らないと伝えたが、師に理解して貰えなかった」
「呉起よ。そこまで伝えて破門されたのなら、やむを得まい。そもそも儒学は形式に拘り過ぎるのだ。おまえと母上との固い約束に、師とはいえ曾参殿が口を挟む事がむしろ無礼であろう。おまえに儒学は向かないのだ。破門されたのだ。もうきっぱりと儒学で身を立てる事は諦めろ。おまえには張疋殿に学んだ兵学があるではないか。」

 普段寡黙な蔡信が珍しく饒舌に語った。呉起はその饒舌さに蔡信の深い思い遣りを感じた。呉起は母の死や、師からの破門を受けて自分自身を見失っていた事に気がついた。たしかに蔡信の言う通りであった。母との約束を果たす為に、早く世の中に出たいと思って学んだ儒学も、深く学べば学ぶほど己の求めている物とは異なる違和感があった。
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by shou20031 | 2005-02-01 20:30 | 中国歴史小説


「呉子」無敗の将軍 若き日の呉子Vol.11

超耳達が荷駄の警護で臨淄へ向ったのと入れ替わりに、李淵と李香が踊り子を連れて呉起の家を訪れた。
「お久しぶりで御座います」
一年振りに会う李香は以前のようなあどけなさが抜け、匂うような女を感じさせた。
「一段と美しくなられましたね」
呉起は胸の高鳴るのを押さえて、眩しそうに李香を見て言った。
「呉起様こそ一段と頼もしくなられて、随分と曲阜の女子を泣かせておられるのでしょうね」
李香が拗ねるように呉起の顔を見て言った。
「呉起殿。李香の失礼な言葉を許してくれ」
李淵が呉起に李香の不躾な言葉を謝った。李淵には李香のいじらしさが哀れであった。

「張疋殿はお元気ですか」
蔡信が気を使って話題を変えた。超耳達は踊り子達と楽しげに話し込んでいた。
「子供達の面倒を見るようになって、かえって若返ったようだ。許駿殿が臨淄の心配は無用だから、呉起殿には曲阜での学問に精進してくれとの事だ」
「そうですか。皆のお陰で私の学問のほうもだいぶ進みました」
呉起は久しぶりに会った李香の美しさに心を奪われていた。
「呉起殿、あまり学問に根を詰められると体を壊しましますぞ」
李淵はそう言うと呉起の耳元で囁いた
「呉起殿にこの老人から頼みがあるのです」
「私で出来る事であればいいのですが」
「李香はあなたを慕っております。あなたには大望があることも知っておりますが、それ故、私はあの孫娘が哀れでなりません」
呉起は李淵の言葉を驚いた。

「おじい様心配なさらなくとも、呉起様はきっと曲阜の女子と生き抜きをされています」
李香が卓に料理を持って来て呉起を睨むように言った。
「蔡信。私は学問でそれどころではない事を李香殿に言ってくれ」
呉起は李淵の言葉に動揺していた。
「わしは、呉起が塾に出かけているとばかり思っていたのだが」
蔡信は呉起が普段見せたことがない困った顔が可笑しくて笑った。
「ほら。やはり呉起様はどこかで綺麗な女子と息抜きをされているのです」
「おい。蔡信。疑われるような言い方はよせ。私は塾とこの家の間の道しか知らない」
呉起は李淵の言葉で動揺している気持ちを落ち着かせようとして、むきになっていた。
「李香よ。いい加減にしなさい。呉起殿は本気で困っておる」
李淵がそう言うと、真っ赤になっている呉起の顔を見て、李香と蔡信が笑い出した。

「まるで婚礼のように華やかだな。私も席に加えて貰えるだろうか」
陶固が酒瓶を提げてひょっこりとやって来た。
「これは陶固殿。どうぞお座り下さい」
呉起はそう言うと立ち上がって陶固に椅子を勧めて、李淵と李香を紹介した。
「呉起どのは斉の舞踊団の方々までご存知なのか」
陶固は李香の美しさに目を奪われていた。
「盗賊に襲われた時に呉起様とここに居られる方達に救われたのです」
李香が呉起の顔を愛しそうに見ているのに陶固は気が付いた。
「ほう。それはまた勇ましい話ですね」
「そのおかげで、呉起様達は十人以上のやくざに襲われたのですが、蔡信様と一緒に見事に討ち果たしたのです」
李香は呉起の強さを自慢げに話した。
「とんでもない。もう少しでこちらが危ないところでした」
呉起は李香が大袈裟に陶固に話すので困って言った。

「李香殿の舞はさぞや美しいでしょうね。一座の興行はいつからですか」
陶固が李香の気を引こうと言った。
「明日からです。ぜひ皆様で見に来て下さい。でも呉起様はお美しい方と学問の息抜きでお忙しいでしょうけれど」
李香はそう言うと陶固に微笑んで酒を注いだ。
「このように美しい女性も金も労せずして手にはいる呉起殿が羨ましい」
陶固は纏わりつくような視線を李香に注いだ。呉起はその時、陶固が怒りに近い嫉妬に身を焦がしている事に気が付かなかった。
陶固は酒に酔った勢いで李香を無理やり抱き寄せようとして彼女に顔を打たれた。陶固はそれに懲りずに他の踊り子に抱きつこうとして、蔡信に押さえ込まれたまま寝込んだ。その日陶固の鬱屈した思いが酒を飲んで一度に出たようだった。

李淵は最後まで呉起があれほど一所懸命に学んでいた兵学を棄て、儒学を学ぶのか責めなかった。むしろ責められぬ事がかえって呉起の心を苦しめた。それは張疋や李淵のように学問を生活の糧や出世の踏み台にしてこなかった人間の大きさなのだろう。
李香は一座が曲阜の街で興行している間、呉起の家を訪れて楽しそうに炊事や洗濯をして行った。呉起は李香と二人になるとかえって意識してしまい気軽に言葉を交わすことも出来なくなってしまった。それでも李香は毎日幸せそうにやって来た。

曲阜を離れる前の晩、李香が一人で呉起の部屋を訪れた。
二人は言葉もなく見詰め合い、行灯の芯が燃える音だけがしていた。静かな夜の時間が更けて行った。
「李香どの、私はまだ、職もない塾生なのだ」
呉起は静けさを破るように言った。
「呉起様、私は旅の舞妓なのです。今夜だけ呉起様の隣で寝させて下さい」
風が揺らぎ、行灯の芯が瞬いて消えた。
「明かりをつけないで下さい」
呉起の腕の中に柔らかな肉体が投げ出された。呉起は壊れてしまうような李香を抱きしめた。
「ああっ」
李香が漏らしたため息が、押さえていた呉起の本能を解き放った。
「この次に曲阜に来る時は、私の妻であると、李淵殿に伝えてくれ」
二人の夜は静かに更けて行き、部屋の中に衣擦れの音と李香のため息だけが聞こえた。

翌日、李香の一座が曲阜の街を離れて行った。やがて呉起が曾参の学塾に学んで二度目の新年を迎え、呉起の席次が首席となった。しかし呉起は儒学を学べば学ぶほど、己が求めているものから遠ざかっている気がしていた。

「また、後から入って来た者に抜かされたようだ」
陶固は新年の席次の発表の後に呉起の姿を見つけて言った。
「呉起殿。すまぬが金を少し用立ててくれまいか」
陶固は呉起の体に擦り寄ると耳元で囁いた。
「陶固殿。お断りいたします。私は金貸しではありません」
「呉起殿。そこのところを何とかしてもらえまいか。あなたはやがて栄達して行くが、ここに取り残される者の気持ちを考えて貰えないだろうか」
「陶固殿。我々は塾生の見本にならなければいけないのです。塾生同士の金の貸借は禁止されております」
呉起は以前超耳が言った言葉を思い出していた。
「呉起殿。首席ともなると言われることがちがいますな」
陶固は呉起の言葉に顔色を変えて言った。

「母上の具合が悪いと聞いたが、帰らなくてよろしいのか」
陶固はどこから耳にしたのか呉起の想い悩んでいる事をついてきた。
「母上との約束がありますので」
「そうであった。呉起どのは大臣になるまでは何があろうと母上とお会いにならないのであったな」
陶固はわざと他人に聞こえるように言った。
「呉起殿。魯の国から先生に塾生を一人推薦するように依頼が来ているそうです。先生は孝に厳しい方だ、気をつかれたほうがよろしい」
陶固はそう言うと呉起をへこまして気を良くして去って行った。呉起は陶固の後ろ姿を見て大きく溜息をついて家に戻った。

「呉起よ。母上が亡くなられたそうだ」
許駿が臨淄から知らせに来ていた。
「そうか」
呉起は許駿の言葉を聞くと力が抜けたように椅子に座った。
「母上は亡くなられた時に、お前の学問の邪魔になるから、おまえには知らせるなと言われたそうだ」
呉起は俯いたまま泣いていた。母の想いを聞くと、子として親が病に伏しているのに、看病にも行かず、亡くなって葬儀にも行かない己を恥じていた。

翌日呉起が学塾へ行くと、師の曾参の部屋に呼ばれた。
「魯の宮廷より司寇の役人として塾生を推薦せよと、ご沙汰がきておるのだ。私はそなたを考えていたのだ。ところがそなたは母上が病気であるのに、看病にも帰らないと聞いたのだが本当か」
老齢の曾参は静かに呟くように話した。
「はい。それは誠です」
「なぜ。母上の看病に戻らないのだ」
「母との約束だからです」
「呉起よ。私はそなたに何を教えて来たのだろうか。早く母上の元に行くがよい」
「師よ。母は既に亡くなりました」
「呉起よ。すぐに戻って母上の喪に服しなさい」
「師よ。母との約束なのです。私は親への孝よりも、母との約束を守りたいのです」
「呉起よ。それはそなたの考え違いだ。私はどうやらそなたを見損なっていたらしい」
  曾参の言葉が呉起の心を抉った。曾参の惜別の言葉であった。
「師よ。長い間お世話になりました」
呉起はこれまで世話になった礼を込めて、長い間頭を下げて曾参の部屋を辞した。曾参は小さく頷いて呉起を引き止めなかった。

「何かあったのか」
呉起が俯いたまま何も言わずに家に戻って来たのを見た蔡信は心配になって尋ねた。
「私は学問には向いていないようだ」
「首席になろうとしているおまえが、何を言っているのだ」
「曾参殿の塾を破門になったのだ」
「どうして破門になったのだ」
「師の教えに背いたからだ」
「母上の事か」
蔡信は言葉を失った。
「母上との約束であった事を伝えたのか」
蔡信は呉起に確認するように尋ねた。
「母との約束で葬儀にも戻らないと伝えたが、師に理解して貰えなかった」

「呉起よ。そこまで伝えて破門されたのなら、やむを得まい。そもそも儒学は形式に拘り過ぎるのだ。おまえと母上との固い約束に、師とはいえ曾参殿が口を挟む事がむしろ無礼であろう。おまえに儒学は向かないのだ。破門されたのだ。もうきっぱりと儒学で身を立てる事は諦めろ。おまえには張疋殿に学んだ兵学があるではないか。」

普段寡黙な蔡信が珍しく饒舌に語った。呉起はその饒舌さに蔡信の深い思い遣りを感じた。呉起は母の死や、師からの破門を受けて自分自身を見失っていた事に気がついた。たしかに蔡信の言う通りであった。母との約束を果たす為に、早く世の中に出たいと思って学んだ儒学も、深く学べば学ぶほど己の求めている物とは異なる違和感があった。
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永遠の愛ってあるのだろうか
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