中国歴史小説と幻想的な恋の話


カテゴリ:芸術( 40 )



奇想の画家 曾我蕭白

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「小説・詩の部門」

画を望ば我に乞うべし 曾我蕭白(1730-1781)

曾我蕭白の名前をご存知ですか?実は曾我蕭白の名前はしばらく忘れられていました。
彼の名前を一躍有名にしたのは三十年以上前に出版された「奇想の系譜」と言う本でした。それ以来評価の上がっている奇想の画家です。現在京都国立博物館で5月15日まで特別展をしています。(途中で一部展示変えがある)”百聞は一見にしかず”正直これほどのものとは思っていませんでした。驚くべき迫力で見る者に迫ってきます。蕭白の絵には只ならぬ妖気が漂っているのです。狩野派や土佐派など既存の権威に挑戦している意気込みを感じる絵でした。
今月の芸術新潮にも特集されています。興味のある方は書店で見て下さい。


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この人は京都の大店の染物屋の子として生まれるが、幼くして両親を亡くして苦労しました。絵は狩野派の高田敬輔(滋賀県立美術館で4月23日から特別展があります)に学ぶが、どうやら破門になったようです。伝統と権威の狩野派をあざ笑うがごとく、、十代目の曾我蛇足(曾我派は水墨画の流派)と名乗ったり、藤原鎌足の末裔と名乗る。そして明の太祖洪武帝の十四世であるとまで大法螺を吹きまくる。
c0039644_18342151.jpgしかし絵を描く力は抜群である。一気に書き上げたのであろう「唐獅子図」や「達磨図」の圧倒的な筆運びに息を呑んだ。曾我蕭白は30代の時に伊勢に放浪の旅に出る。実際伊勢の各地に彼の作品を残している。ある殿様に絵を描くように頼まれたが、絵も描かず毎日食っては寝てばかりで絵を描こうとしない、家老が催促すると高価な絵の具を墨の中に投げ入れ箒で金屏風に一気に線を描いて立ち去った。その後には屏風に七色の虹が描かれていたと言う。蕭白にはこのようなエピソードが沢山ある。

c0039644_2155466.jpg蕭白の描く人物は、まるで何かと戦っているかのような、妖気が漂う。それが既存の京都画壇だったのであろうか。悲しいことに蕭白は48歳の時に息子を亡くしてしまう。そしてそれまでの画風ががらりと変って、透明感のある山水図を描く。しかし、息子を追うように52歳でなくなる。墓は京都堀川の興聖寺にある。驚いたことに私が何度も訪れたことのある寺だった。興味のある方は京都国立博物館を訪れてみると良いかもしれない。彼の人物がは不気味でも山水画は一級品である。
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by shou20031 | 2005-04-19 19:56 | 芸術


写実的日本画の祖 円山応挙

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真面目を絵に描いた人物 円山応挙(1733-1795)


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近代日本画の祖。真面目を絵に描いた人物。なんて洒落てみました。
英一蝶や尾形光琳に比較するのも阻まれるくらい真面目な人物です。円山派の祖でもある。

c0039644_1905445.jpg丹波の農家に生まれ、若い頃京都の玩具商に勤めた。人形などの絵付けをしてながら絵を、狩野派の画家石田幽汀に学んだ。勤めていた玩具店で扱っていた眼鏡絵を描くことにより西洋画法を学んだ。(眼鏡画とはレンズを覗くとまるで本物の景色が見えるようにに描く絵)彼の真面目さはその精緻な写実性となって表れる。彼の描く眼鏡画が評判を呼ぶ。三十歳の頃応挙と名乗り、円満院の門主祐常(ゆうじょう)の知遇を得て中国絵画の研究をする。祐常は応挙の画論を書きまとめた「萬誌」を残す。
「大瀑布図」「孔雀に牡丹図」はこの頃の作品で、他を寄せ付けない写実性が話題となる。「大瀑布図」は全長3.6mある。書院の中に滝を再現しようとした迫力十分な絵である。
応挙が京都の画壇に出ると写生一色(それまでは粉本となる中国画を手本として写していた)となったと、「雨月物語」の作者上田秋成は書き残している。当時鬼才と言われた曾我蕭白は「鑑賞的な絵画なら私に頼みなさい、実用的な絵図なら円山応挙に描いてもらえ」と言わせた。応挙の画名は狩野派をしのぎ弟子は千人を越えたと言われている。正直この人の事は書くのを止めようかと思うぐらい真面目でエピソードの少ない人なのである。驚くべき写実的画家円山応挙を外すわけにはいかない。

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上の二枚は応挙の写生帖。驚くべき写実性である。しかし一方こんな子犬の可愛さや幽霊の愛しさを描くことも出来た。
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by shou20031 | 2005-04-16 19:04 | 芸術


放蕩息子第二弾  尾形光琳

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尾形光琳(1658-1716)

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尾形光琳の名を知らぬ人はいないであろう。
国宝「燕子花図屏風」の作者尾形光琳は京の高級呉服商「雁金屋」の次男として生まれた。三男が後の尾形乾山である。
呉服商の息子として様々な芸事を習った。十八歳の時能を舞ったという記録が残っているそうである。弟の乾山と一緒にかなりの放蕩三昧をしていた。

三十歳の時に父親の膨大な遺産を相続する。子供を生ませた女に訴えられたり、わずか数年で財産を使い果たした相当な放蕩息子である。商家に生まれたにもかかわらず、算盤勘定が全く出来なかった。財産を使い果たした上に弟の乾山から借金までしている。

財産を使い果たした光琳を助けたものは習い思えた絵を描くことであった。
これからが光琳の凄いところである。遊びを介して知り合った人間をパトロンにして絵を描いて生活するようになるになる。そして40代半ばに法橋という絵師としては高位を受ける。放蕩に明け暮れながらも次の生活手段を身に付けていたのは見事としか言えない。結局光琳の放蕩三昧の生活で培われた感性が後の名作を残したことになった。


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しかし生活は楽ではなかったようで新しいパトロンを探しに、1704年光琳は江戸に下り大名家に出入りして絵を描いた。酒井家の絵師となるがわずか二十人扶持。しかし仕事はそこそこあり遊んで生活するには困らなかったようであるが、当時の江戸は京の華やかさがなかった。
1709年に京都に戻り、国宝「紅白梅図屏風」を書き上げている。京に戻った光琳は、なくなる1716年まで弟の乾山とともに沢山の名作を残す。放蕩は最後まで止まなかった。
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by shou20031 | 2005-04-13 21:11 | 芸術


英一蝶(はなぶさ いっちょう)の名前をご存知ですか?

今宵、英一蝶に太鼓持ちの哲学を学ぶ

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英一蝶(はなぶさいっちょう)(1652-1724)

京都の医者の子としてうまれるが、江戸に移り狩野派の絵を学び多芸多才の風流才子で、西の光琳、東の一蝶とまで言われた。
一蝶は多芸多才ゆえか遊興にふけり太鼓持ちとしても鳴らした。大身旗本を吉原に連れ込み彼等の財布で楽しく遊ぶのである。絵も俳句も歌も管弦もお手のもの。太鼓持ちの一蝶の遊びは太夫を呼び豪遊となる。金を湯水のごとく使う一蝶の遊びに、旗本のほうが音を上げる。あまりにも派手な遊びの為一蝶は二ヶ月の入牢を科せられる。ところが一蝶は全く懲りないのである、遂には五代将軍の縁者まで吉原に誘いこみこれまでにない豪遊を行った。流石に幕府は一蝶の行いに対して鉄槌を振り下ろす
三宅島への「島流し」である。
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罪名は「馬が物を言う」馬が疫病を予言したという流言にかかわったためだと言う。あまりにも馬鹿らしい罪名で、生きて戻ることが出来ないと言われた「島流し」である。
それでも一蝶は懲りないのである。三宅島でもうかれ絵を描き続ける。
三宅島での生活は十年に及んだ。六代将軍家宣は将軍就任とともに大赦令を出す。
一蝶は江戸に戻ってきて、今度は紀伊国屋文左衛門など遊ぶ金に糸目をつけない大金持ちの太鼓持ちをして遊興にふける。全く懲りないのである。
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一蝶は当時としては高齢の七十二歳まで風流才子としての面目を通し遊び続けた。男としてはこれぐらい遊び呆けてみたい気もする。

4月16日に午後10時に東京12チャネルの美の巨人で「英一蝶」が放送されます
さてどんな一蝶として紹介されるのでしょうか楽しみです。
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by shou20031 | 2005-04-11 21:10 | 芸術


今宵は写楽の斬新な絵ついて語ろうよ


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東洲斎写楽
絵に興味がある人で東洲斎写楽の名前を知らない人はいないでしょう。
写楽と言う人物が謎に包まれていることが一層彼の名前を高めているのかもしれません。
寛政六年(1794)5月からわずか十ヶ月の間に150枚の作品を残して忽然と姿を消してしまうのです。写楽は誰だったかはTVや小説によく使われる題材です。今は亡きフランキー堺氏が演じた写楽が印象的でした。

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蔦屋重三郎(歌麿と同じ版元)がプロデューサーとなって28枚の大判役者絵を売り出す。全てが雲母刷りの豪華な大首絵。役者絵は今で言うブロマイドであった。それまでの似顔とは違い、かなりデフォルメされていた。賛否両論があったがあまり売れなかったらしい。現在の我々から見れば素晴らしいデザイン力が伺われるがあまりにも早すぎた才能のだったのでしょうか。その後に役者の全身像を描くがやはり販売不振であった。



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興業的に全く売れなかった役者絵であるが、今からみてもデザイン的には素晴らしいと思う。残念ながら200年ほど生まれるのが早かったのかもしれない。僅か十ヶ月のあと斬新な画風が受け入れずに浮世絵界から消え去ってしまう。このあと1910年ドイツ人ユリウス・クルト博士が写楽を風刺作家として評価されるまで忘れ去られていた。
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by shou20031 | 2005-04-09 19:54 | 芸術


今夜は君の美しさに酔いたい

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             切手になりましたご存知ビードロを吹く娘
エロスと色彩の魔術師喜多川歌麿の美人画(1760~1806)
歌麿は当初北川豊章の名前で浄瑠璃本や黄表紙の挿絵を書いていた。
あの「写楽」をプロデュースした蔦屋重三郎に出会ったことにより大首絵による美人画を確立する。喜多川派の祖となる。

1783年より喜多川歌麿を名乗り1792年から大首絵を描き寛政美人画のリーダーとなった。


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それまで遊女や役者などの美人画を専らにしていたが,寛政三美人など市中で評判の美人画を描くようになった。
海外では歌麿の春画=枕絵は評判の高い枕絵の名作 「歌まくら」などがある。美人画や枕絵ばかりでなく「八景名所絵」などの風景画にも名作を残している。

松平定信は華美な庶民文化を取り締まりる「寛政の改革」を進めた。歌麿はこれに反抗する。大首絵を禁じられると上半身の絵を描き、一人を禁止されると2人を描いた。何とも素晴らしい反骨精神であるが、しかし幕府はついに1804年禁令に触れたとして歌麿を手鎖の刑とする
世界の「ウタマロ」は1806年に亡くなっている。
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by shou20031 | 2005-04-07 16:11 | 芸術


今夜は長谷川等伯について語ろうよ

「雪舟五代」長谷川等伯

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  長谷川等伯は「雪舟5代」を名乗り、狩野派に対抗して長谷川派を起こした桃山時代の画家。

  能登の国、畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子として生まれ、後に染物業長谷川宗清の養子となり長谷川姓を名乗る。33歳まで能登で活躍、養父母が亡くなったのをきっかけに文化の中心であった京都に妻子を伴って上洛した。
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  人生50年の時代に等伯は30代を越えて勝負に出た。名刹大徳寺の頭塔総見院の襖絵や山門の天井画を描き,51歳の時に雪舟等揚の一字を貰って、それまでの雅号信春を等伯に改名している。

50歳の等伯は和尚がいない隙に大徳寺の襖に「山水図」を描いた。大徳寺は禅寺では名刹である。時の権力者へ自分の絵を売り込むために無断で描いたと言うエピソードがある。狙いは当たり天下一の茶人利休の知遇を受け、やがては豊臣家の絵師となる。兵法を知っている。

52歳の時に仙洞御所の障壁画の仕事を狩野派に奪われ、これ以降狩野派との激しい対立が続く。当時京都第一の寺祥雲寺障壁画を製作、国宝「松林図屏風」を描くが、等伯の嫡男久蔵(26歳)を失くす。早すぎる久蔵の死が天才画家「等伯」亡き後の長谷川派の衰退を決定ずけたと言われている。

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等伯は60代になっても次々と大作を製作し続けて61歳の時、伝統の狩野派に対抗して「雪舟五代」を名乗り長谷川派の結束をはかる。

66歳の時「法橋」に叙せられる。68歳のときの画銘に「法眼」の書き込みがみられる。

72歳の時江戸の徳川家康に呼ばれ、長谷川派の命運をかけて江戸に下るも江戸到着2日後に亡くなったといわれる。

長谷川等伯が活躍した時期、京都画壇は画家集団狩野派が全盛を誇っていた。そこに30歳を越えた男が己の画筆一本で殴りこみを駆けた心意気を感じずにはいられない。灰汁が強いが尊敬するに値する男の生き方である。

出光美術館で4月17日まで長谷川等伯展を開催している。興味のあるかたはどうぞ。ただし松林図屏風(国宝)や今回紹介した写真の展示はない。
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by shou20031 | 2005-04-05 16:55 | 芸術


今夜の新日曜美術館は「早水御舟」

初めて買った画集が「早水御舟」だった

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           炎舞
この絵を初めて見た時いったい何を思ったのか忘れてしまった。
巨大な炎に集まった蛾がやがて身を焦す姿に魅入られたように、あの当時少ないおこずかいで画集を買った事だけは覚えています。父から幼い頃から絵を描く事強いられ、それに反発して描く事を止めた時期だったと思います。
自分は一生かかってもこんな絵は描けないと思ったのでしょうか。もう三十年も前の話です。
速水御舟がこの絵で伝えたかったものは何だったのか今でも考えることがあります


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鮮やかな赤い牡丹と色を拒絶したような墨牡丹
御舟の深い精神性を表したような絵です。
彼は絵を描く為に何度も参禅している。


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春の宵
この暗い画面から桜の本来持つ妖艶さが溢れて出ているように感じます。


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名樹散椿


速水御舟がどんな環境でどんな人生を過ごしたか今夜の番組で教えてくれるでしょうが、もしロートレックのように綺麗なだけの人生を伝えてもつまらない気がする。速水御舟は僅か40才で腸チフスでこの世を去った。
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by shou20031 | 2005-03-27 17:43 | 芸術


美の巨人 アンリ ロートレック

好きな割りに見過ごしてしまう番組「美の巨人」
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今日はロートレック
ムーランルージュのポスターを芸術にまで引き上げた天才について解説していた。
伯爵家の長男に生まれたロートレックが絵の世界に没入し、娼婦を描いた理由を幼い時に受けた怪我により父親の愛を失った為と言う視点から番組を作っていた。


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確かにロートレック以前に娼婦をこのように描いた画家はいなかったでしょう。
彼が受けた心の傷ゆえに社会的に弱い立場の娼婦達を描いたと伝えていました。

ちょっと残念だったのは彼の悲しい過去や綺麗な面だけにスポットを当てた点が物足りなかった。彼の足が異常に短かったのは事故として捉えていたが、血族結婚による為の障害であるとも言われている。父と母はいとこの関係であったことや、彼の死がアルコール中毒と性病によるものだと言われていることは伝えていなかった。娼婦の館に男が出入りしていて絵だけ描いているわけがない。

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               トウルーズ伯爵夫人(ロートレックの母)
ユトリロの母とも恋愛関係にあったが、生涯結婚しなかったロートレックが愛していた女性は母だけだったとも言われている。あの番組がなぜロートレックを綺麗に仕上げたのか不思議である。例えロートレックがマザコンの女にだらしのない背の低い男だったとしても、私はロートレックの絵が好きだ。
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by shou20031 | 2005-03-26 22:46 | 芸術


今夜は雪舟について語ろうよ!

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「雪舟はどう語られてきたか」山下祐二編・監修


雪舟といえば室町時代の画聖。中国に学んだ雪舟だか、その中国の画壇にもその名を轟かせたとか。一方あの岡本太郎は雪舟をコケ下ろしたそうです。高い技術性は認めるが人間性を感じられないそうです。東洋美術の愛好家であった武者小路実篤も雪舟の絵が好みでなかったらしく画聖雪舟に関してはほとんど語っていないとか、多士済々たる文化人が雪舟を語っています。


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雪舟等揚(1420-1502)

大内家の船に乗り明に渡航(1467-1469)その画業を高め明の宮廷の壁画も書いたと言われている。山口の雲谷庵を本拠地として山水画に独自の画風を確立して、その後の日本の水墨画に多大な影響を与えた。

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                         天の橋立図

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                    四季山水図の冬の部分
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by shou20031 | 2005-03-23 16:34 | 芸術

    

永遠の愛ってあるのだろうか
by shou20031
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