中国歴史小説と幻想的な恋の話


カテゴリ:芸術( 40 )



誰もが知ってる ルノアール

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誰もが知ってる オーギュスト・ルノアール(1841~1919)
 
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仕立て屋の息子として、南フランスの陶器の産地として有名なリモージュに7人兄弟の6番目として生まれた。3歳のときパリに移住、サン・トスタッシュ大聖堂の聖歌隊に入る。作曲家のシャルル・グノーに楽の才能を認められた。同時に絵の才能にも恵まれていたが、13歳の時家が貧しいため学校へは行かず、陶器絵師の弟子になる。絵付けの仕事をしながら、夜間のデッサン学校に通った。二十歳頃よりルーヴル美術館によく通うようになり、ルーベンスやフラゴナールらの作品を模写するようになる。教会堂などの装飾に従事しながら、お金をため、国立美術学校に入学し、モネやシスレーらと交わり、印象派運動に加わった。コロー、ドラクロアの影響を強く受ける。1864年サロンに初入選、翌年は2点が入選したが、生活は苦しかった。
1874年ルノワールのアトリエに集まったドガ、モネ、セザンヌ、ピサロ、シスレーらを中心に第一回印象派展をひらいた。ルノワールの描いた裸婦像が発表された時、印象派への酷評で知られるジャーナリズムは「紫・緑の斑点がある腐敗しかかった肉の塊」と評したそうです。
その後印象派展は1886年まで8回開催された。

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1881年のイタリア旅行でルネッサンス美術にふれ印象派のもつ温かさと、古典主義を融合させ、独自の色彩を用い、「色彩の魔術師」と言われ、数多くの名作を残しました。

1890年に結婚して3人の息子を設けた。これ以降生活も安定、政府からレジオン・ドヌール章も与えられたが、、病魔(リュウマチや痛風等)に蝕まれて体は不自由となり、南仏カーニュに家を建て(現在ルノワール美術館となっている)すごすようになります。
1819年肺うっ血のため78歳で亡くなりました.


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ルノアールの魅力は豊満な裸婦像でしょうか。私には昔ルノアールの絵を見るのが恥ずかしかった時期がありました。今では結構好みかも。ルノアールは裸婦像において芸術における理想の美を求めたと言われている。ルノアールは豊満な裸婦像で悪名を馳せ、描き続けることで名声を確立した。

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結婚して子供を持ったルノアールは父親としての目から数多くの子供の絵も描いている。それがまた愛くるしいのである。ルノアールの絵には安心してみていられる大らかさを感じることができる。
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by shou20031 | 2005-06-04 22:13 | 芸術


窪 俊満(くぼ しゅんまん)にサラリーマンの副業のあり方を学ぶ

c0039644_18104585.jpg窪俊満(1757-1820)にサラリーマンの副業のあり方を学ぶ
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江戸に生れ、家業は塗物師。浮世絵を描きながらも死ぬまで家業をおろそかにしなかった。絵も狂歌も戯作も余技であった。通称は安兵衛、別号に黄山堂・尚左堂等。楫取魚彦に師事。また北尾重政・勝川春章に浮世絵を学ぶ。絵は肉筆、摺物絵が主であったが、「紅嫌い」と呼ばれる赤を極端に抑えた独特の色調の絵にも才能を発揮した。左利きだった。晩年は南陀伽紫蘭と号し、一節千杖の名も用いた。狂歌師・戯作者としても活躍した。六樹園石川雅望について狂歌を学んだ。多芸の人である。
文政3年(1820)歿、64才。
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画風は鳥居清長の影響を受けています。摺物(暦、狂歌などに絵を添えて一枚摺りにしたもの)の特徴である手の込んだ色彩と摺りの技巧が随所に見られます。家業の塗物師の仕事を疎かにしなかった為に鍬形惠斎や山東京伝と北尾派の三羽烏と言われた割には作品数は少ない。

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山東京伝は北尾派三羽鴉と言われながらも早々と己の絵師としての才能を見限り戯作者に転向。鍬形惠斎は浮世絵師から武士となった。窪俊満は正業を持っていたせいか絵師としても戯作者としても伸び伸びと自分の才能を開花させた。サラリーマンの副業または趣味のあり方としておおいに参考となる気がする。
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by shou20031 | 2005-06-02 20:36 | 芸術


人を育てる名人絵師 歌川豊国

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名伯楽 初代歌川豊国(1769-1825)


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写楽や北斎と同世代のため、現代では影が薄くなってしまっているが、たぶん江戸時代当時では一番人気があったであろう役者絵師。
江戸の芝神明に住む人形師の息子として生まれる。歌川派の開祖豊春に弟子入りして豊国の号を用いるようになる。 デビュー作は十九歳の時で黄表紙の挿絵。役者絵」で26歳の若さで一躍人気絵師となる。やがて独自のスタイルの美人画も描き始める。
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時代が求めるものを見極める目があった。大衆の望む作品を手がけ、常に人気を保ち続けた。豊国が挿絵を描くと本の売り上げが変わため、豊国に挿絵を頼む版元が後を絶たなかった。門人も多く、最盛時には40人を越す弟子がいた。なんとあの広重も入門を希望したが断られたと言われている。
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寛政の取り締まりの時、豊国も歌麿とおなじように50日の手鎖の刑に服している。
幕末の浮世絵師の多くが歌川派であったのは豊国の功績である。豊国の系譜は明治まで続いていることから考えれば、人を教育する面においても優秀な人であった。

写楽 = 豊国であると言う人もいる。同じ役者絵を描いていたからであろうか。それが真実かどうかは疑わしいけれど、想像してみるのも楽しいものである。
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by shou20031 | 2005-05-28 21:33 | 芸術


狩野芳崖と橋本雅邦

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狩野芳崖(1828-1888)と橋本雅邦(1835-1908)に友情を想う
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狩野芳崖。長府藩の御用絵師狩野晴皐の長男として下関に生まれる。父に絵の手ほどきをうけたのち、19歳のころ上京、橋本稚邦と同日(弘化3・1846年4月18日)に奥絵師木挽町狩野の勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、僅か4年で塾頭にまでなった。芳崖の才能は狩野派の絵の領域を飛び出てしまい、雅信に破門されてしまうが、普段物静かな橋本雅邦が師に取りすがるようにして芳崖の破門の許しを請うたと言う。芳崖は七歳年下の雅邦に救われた。それも一度ならずも三度までも、芳崖を破門するならば自分を破門してからにせよと、普段物静かな雅邦は師に迫ったと言う。私はこれほど強い友情に結ばれた二人をただただ羨ましく思う。師の雅信は芳崖を失う事よりも雅邦を失うことを怖れたとも言われる。
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しかし、江戸幕府崩壊・明治維新によっ他の狩野派の絵師と同様に職を失ってしまい、生活苦とたたかうことになる。一時絵筆を捨て国事に尽くすが、貧困のあまり貿易商の下絵書きをしていた。
やがて島津公爵家の庇護をうけ、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。。岡倉天心と共に図画取調所を設ける。美術学校の設立に尽力したが開校前に没する。
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橋本雅邦 武州川越藩のお抱え絵師、橋本養邦の長男。芳崖と同門であった。芳崖が一時山口に帰郷したときには雅信の塾の塾頭となった。
気迫のこもった一作で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された。川合玉堂がこの絵に感動して雅邦に師事した話は有名である。温厚な人柄で東京美術学校では流派にこだわらない自由教育を施し、大観、観山、春草ら、個性ある画家を育てた。芳崖亡き後も天心らとともに日本美術院の創立を果たした。
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by shou20031 | 2005-05-26 22:15 | 芸術


北斎に文句を言った男 鍬形惠斎

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北斎に文句を言った男 鍬形惠斎(1764-1824)
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江戸浜町に生まれる。父は静岡出身で、江戸に出てきて畳屋をしていた。恵斎は、幼い頃から北尾重政の門人となった。十五歳で三二郎の名で描かれた黄表紙の挿絵を描く。
北尾政演(後の山東京伝)・窪俊満などがおり、この三人で北尾派三羽烏と言われた。やがて北尾政美の名を貰い、武者絵、浮絵、鳥瞰図などを描いた。
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寛政六年(1794)に、津山藩松平家のお抱え絵師となり、名前を北尾を改め鍬形恵斎紹真と改めた。やがて狩野惟信のもとで、狩野派の画風を学んだ。
浮世絵師から大名のお抱え絵師になったのは非常に珍しいことであった。

お抱え絵師としての恵斎は、 北斎に先駆けて絵手本類を描くようになる。『略画式』はのちの人物・鳥獣・山水・草花・魚貝など「北斎漫画」の原型となった。恵斎はまた略画以外にも、鳥瞰図である名所図会「江戸一目図屏風」を描いている。北斎の「東海道名所一覧」は惠斎が描いた後である。惠斎は読物に北斎は物真似が上手いと皮肉った。北斎漫画も決して北斎のオリジナルでないと思うと少し興ざめではある。
しかし、武士となっていた惠斎はそれ以上は責めなかった。
惠斎の「近世職人尽絵詞」は肉筆画の傑作と言われている。
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津山藩のお抱え絵師になったが、江戸に在住しており 津山には一度行ったのみである。
武士のしがらみを嫌う鳥文斎栄之のような人物もいるし、下級武士でも武士になりたかった絵師がいたり人の考えは実に様々ですね。
一部福岡大学の画像を借用させていただいております。
                              
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by shou20031 | 2005-05-25 21:04 | 芸術


人の役にたちたかった画家 ビンセント・バン・ゴッホ

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人の役に立ちたかったゴッホ(1853-1890)

ゴッホ展は4月初めに行きましたが、紹介の文を書く気になれなかったのです。

ゴッホに関して何を今更紹介すべきなのだろうか。彼の悲しい生涯に関しては既にもうご存知のことでしょうから。

ゴッホほど人が好きで人の為になろうとして報われなかった画家もいない。

ゴッホは牧師の長男としてオランダ南部の街に生まれる。16歳の時ゴッホはパリの画商に勤める。ゴッホは生涯3度の失恋をしたと言われている。そして最初の失恋をこの時期に経験する。やがて父と同じ牧師になろうとして見習い伝道師となりベルギーの貧しい炭鉱町に赴任するが、ゴッホは牧師になることも叶わなかった。ゴッホはやがて「人の役にたつもの」を描く画家になることを志して32歳にパリに出る。ゴッホは弟のテオの援助を受けることとなる。印象派の画家と交わることでゴッホの絵は明るさをます。しかし酒と女の生活にまみれ、当然の結果としてロートレックと同じように性病も罹病する。
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パリの生活に疲れたゴッホはアルルの明かり太陽を求めて移り住む。ゴッホの傑作はここで生まれるが、もしゴッホがアルルに移住しなければあれほど早く生涯を閉じることはなかったかもしれない。ゴッホとゴーギャンの関係は今更言わなくても良いでしょう。
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ゴッホの絵はサン・レミの診療所に入所したところから見た目にも彼の苦悩を感じることが出来ます。彼の苦悩を目の当りにすると、甘えた環境にいる自分の姿に虚ろになります。
あの絵を見て私は一月以上ゴッホに関して書くことを悩みました。ミヒャエル・エンデの「モモ」が私の気持ちを支えてくれたのかもしれません。
彼ほど人の役にに立とうとした絵を描いた人を私は知らない。1890年ゴッホはピストル自殺をする。弾丸が骨に当り苦痛のまましばらく生きながらえた、急報を聞いて駆けつけた弟テオに看取られて亡くなる。37歳の苦悩の満ちた生涯を閉じた。ゴッホの絵は時空を隔てた現代の私の心に強すぎるノックを送り続けている。
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by shou20031 | 2005-05-22 20:35 | 芸術


雲谷等顔に希薄になった家との関係を考える

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滅んだ名家の復興 雲谷等顔(1547-1618)

肥前国能古見城主・原豊後守直家の次男。原治兵衛直治といった。原家は有馬氏に滅ぼされ、直治は毛利輝元に知行200石で召抱えられた。さらに命じられて模写した山水長巻のできばえを賞された。雪舟ゆかりの雲谷庵の管理を任された。これを機会に姓を雲谷にし、名は雪舟等揚の名から一字をとり、雲谷等顔と名のるようになったと思われる。等顔は茶や連歌の嗜みも深かった。武家としての原家復興を願ったが、絵師として雲谷家の家柄は幕末まで続いた。慶長16年に等顔は法橋に叙せられている。現代に生きる私は希薄になっている自分の家との関係を考えさせられた。
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当初、狩野永徳か狩野松栄に学んだともいわれるが、直接師事したかは不明である。等顔は雪舟3世を名乗り長谷川等伯は雪舟5世を名乗ったのは興味深い。
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雪舟様式を一貫して踏襲し、水墨の山水人物を得意としたが、独自の世界をつくり出した。そして、その構成が大胆なことから武家に好まれた。また、人格的にもすぐれていたと評されている。代表的な障壁画としては、大徳寺黄梅院の諸作品がある。
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by shou20031 | 2005-05-22 09:04 | 芸術


不遇な時代を飛躍の時に変えた  鳥居清長

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美人浮世絵師 鳥居清長(1752-1815)

江戸木材木町の本屋の家に生まれる。本姓は関口。名は新助、後に市兵衛と名を改める。役者絵で名高い鳥居派の鳥居清満の門下となり、鳥居清長と名乗るようになる。
最初のうちはあまり認められることもなく、絵師として不遇時代を過ごす。その間に鳥居派から離れた独自の画風を開拓。安永末頃から美人画で認められ始めるようになる。天明年間は彼にとって絶頂期で、多くの健康的な美人画を残した。 清長にとって不遇な時代は飛躍への大切な準備期間であった。我々は自分の不遇をただ嘆くだけで過ごしていないだろうか?やがて清長の努力は報われる。師の清満には多くの弟子がいたにも関わらず、清長は鳥居派4代目となり、従来の美人画とあわせて、役者絵や芝居小屋の看板絵などを手がけることとなる。
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春信以降の美人画には、春信の影響が多く見られたが、清長は独自の美人画を開拓した。彼の美人画には鮮やかな色彩と健康美があり、歌麿の美人画が登場するまで清長の画風が美人画の主流となっていった。また、大判の3枚続きの形式は清長の美人画によって認められるようになり、それによって大画面で鮮やかな錦絵が描かれることとなった。
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by shou20031 | 2005-05-20 21:15 | 芸術


淫ら英泉と言われた。渓斎英泉

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”淫ら英泉”と言われた渓斎英泉(1790~1848)

姓は池田、名は義信。 号、国春桜、北亭、渓斎、一筆庵可候、楓川市隠等の号をもちいた。
江戸の星ヶ岡で下級武士の子として生まれ、一時仕官したのち浪人し、浮世絵師菊川英山宅に寄宿して画法をまなんだといわれるが、英山とは4つしか年が離れていないので、師匠というよりは同じ師に弟子入りする兄弟子という感じであろうかと思われる。 一時北斎の下にもいたらしい。26歳頃から英泉の号を用いて挿絵を描き始める。始めは華麗な美人画を描いていた。やがて英泉の持ち味となる退廃的で妖艶な美人画を描く。
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英泉の美人画は妖艶な退廃美である。春絵の代表作「枕文庫」は文章も自ら書いた。江戸時代の性の医学書といっても良い感じの本で英泉の性格が垣間見れる。英泉の本領は春画にあると言っても過言ではない。興味のある方は大きな本屋の美術コーナーに行けば必ず出会うことができる。文政末期に藍摺絵を始め、独自の妖艶・退廃的な美人画を創造した。また、広重との合作で「木曽街道六十九次」70枚のうち、23枚を描いている。
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名目上は広重との合作としているが、途中で英泉が遊びに行って戻ってこず、困った版元がその残りを広重に描かせたらしい。英泉は作品を描いている途中に深川に遊びに行ってしまうような遊び好きだったらしい。だからこそ美人画や素晴らしい春画が描けたのでしょう。
晩年になると、幕府の取り締まりを恐れたのか、自分の才能に限界を感じたのか、「一筆庵可候」の名で文章を手がける戯作者となった。
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by shou20031 | 2005-05-17 23:25 | 芸術


天才絵師  葛飾北斎

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世界一のデザイナー葛飾北斎(1760-1849)
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何を今更北斎だと言われてしまいますが、語らねば始まりません。

 北斎は、宝暦10年(1760年)、江戸本所に生まれ、元は彫師だった北斎が安永8年(1779年)、勝川春朗の画号で浮世絵画壇に登場。以降役者似顔絵、肉筆美人画の名手・勝川春章の下で役者絵や美人画、戯作の挿絵などに筆を揮いました。
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 やがて勝川派から離脱した北斎は、寛政6年(1794年)、俵屋宗理と号して自由に表現し始め、美人画では、憂いを含んだ宗理様式と称される画風を完成した。

 寛政10年(1798年)、北斎辰政と号し、以降どの画派にも属することなく、独立の画業を確立しました。その後洋風画の制作を試みたり、長編小説の読本挿絵を描いたり、馬琴作「椿説弓張月」などの作品を数多く手がけています。
 
  皆さんは北斎の最高傑作はどれだと思います?私は単純に北斎漫画です。鍬形惠斎が何と言おうと北斎漫画がヨーロッパの印象派に与えた影響も素晴らしいし、あの動きのある絵手本とするには素晴らしい素材だと思います。北斎の弟子は絵を本業とするものよりも本業を別に持ち余技として習う者のほうが多かったと言われています。
  
  北斎と滝沢馬琴は「新編水滸画伝」「椿説弓張月」など大ヒットを飛ばしたのですが、北斎が滝沢馬琴の要求した挿絵を描かなかった為に絶交。北斎に挿絵を描くのを止められるのを怖れた版元は戯作者を天下の滝沢馬琴から他の戯作者に変えてしまったほどなのです。(これは新編水滸画伝での話です。馬琴から高井蘭山に変わった) 
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 文政3年(1820年)正月の摺物に、北斎は北斎改為一と署名しています。「富嶽三十六景」、など北斎の代表作とされるものは、その大半がこの年代に刊行されたものです。
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 北斎は83歳の時小布施を訪れております。4度小布施を訪れている。最後に訪れたのは88歳の時です。。小布施では祭り屋台の天井絵、岩松院の天井絵などの傑作を残しています。北斎は放蕩な孫の不始末の為にお金に困っていた。その為に、80歳を越えた北斎が江戸から遠い小布施に行かなけれならなかった。さらには借金の取り立てをを逃れる為に浦賀に2年近く潜居していたらしい。
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          小布施の天井画            東海道名所一覧

実は天才葛飾北斎は二番煎じをしたと批判されている。「北斎漫画」も鳥瞰図である「東海道名所一覧」も鍬形惠斎の「諸職画鏡」「略画式」や「江戸一覧図」の物真似であるということであるが、浮世絵の大首絵や美人画の立ち姿など人気が出れば皆物真似をしていた。別に取り立てる問題でもないような気がする。

北斎は生涯に92回の引越しと31の名前をもっている。弟子は生涯でおよそ240名だったと言われています。これは浮世絵の大流派である歌川派に匹敵する数なんだそうです。
北斎は嘉永2年(1849年)、90歳の生涯を閉じています
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by shou20031 | 2005-05-15 20:41 | 芸術

    

永遠の愛ってあるのだろうか
by shou20031
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