中国歴史小説と幻想的な恋の話


カテゴリ:芸術( 40 )



ポール・セリュジエ

東京に来ていたオルセー展を見てこの人を調べてみました。
ポール・セリュジエ(Paul Sérusier,1864年-1927年)はフランス・パリ出身のポスト印象派の画家。ナビ派の一員として知られています。1885年にアカデミー・ジュリアンに入学。そこで出会ったモーリス・ドニ、ピエール・ボナールらと共にナビ派を結成。ポール・ゴーギャンに強い影響を受けて新しい絵画技法を探究した。、ゴーギャンに直接の手ほどきを受けて『タリスマン』を描き、この作品はナビ派に取って象徴的な意味を持つことになった。・・・とまあポール・セリュジエの紹介となります。

正直彼の絵をゴーギャンの作品と見間違えました。それからセリュジエの事を調べたのです。ナビ派はちょっと幻想的でロマンチィックな絵を描きますから女性のファンが多いのではないでしょうか。


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by shou20031 | 2007-04-30 19:13 | 芸術


ウジェーヌ・ブーダン

Eugene Boudin
空と海の画家と言われるウジェーヌ・ブーダン(1824年-1998年)フランスのノルマンディー地方の海辺の町オンフールに船乗りの 子として生れました。奨学金を得て絵を3年間パリで学びましたが、ほとんど独学でありました。画面の3分の2は空を占める絵がブーダンの特徴でありました。船を描いた作品も多く、私は帆船の絵が好きでブーダンの名前をしりました。
ブーダンの最大の功績はモネの才能を発見して油絵と戸外で絵を描くことを教えたことでした。ブーダンは第一回の印象画展にも出品しています。
ブーダンの生まれたオンフレールの町にはウジェーヌ・ブーダン美術館があり彼の作品を展示しています。十年前に渋谷の文化村ミュージアムでブーダンの作品展が開かれています。ちなみに音楽家のエリック・サティーもオンフレールの生まれです。
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by shou20031 | 2006-12-04 18:50 | 芸術


オルセー美術館展

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神戸に行く機会がありましたので神戸市立博物館でやっているオルセー美術館展を見てきました。マネ、モネ、ミレー、ルノアール、セザンヌ、ゴッホなどでオルセー美術館所蔵の印象派を中心にその前後の時期に活躍した画家の作品がオンパレードでした。
一番感動したのはドガの女性の顔のデッサンでした。あまりにも素晴らしいデッサン力に言葉を失いました。
来年一月から東京都美術館で開催予定です。
神戸の街を古い建築を中心に海岸に近い地区を見て回ったのですが普段の運動不足を痛感しました。普段より少しだけ歩きまわっただけなのですが、足が張って大変でした。しかし三宮は新宿とは違いオシャレな街でした。
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それと今はブログを休止中ですが以前は私のところにも来ていただいていたtoothtoothさんのお店に行って来ました。三宮、生田にお菓子の店で3店(三宮そごうの地下も)とレストラン1店の店先を全て拝見して来ました。タルトフィグは美味しかったです。それぞれが素敵なお店でした。
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by shou20031 | 2006-11-28 22:03 | 芸術


浦上玉堂展

c0039644_182668.jpg先日実家に線香を上げに行った折に千葉市美術館で浦上玉堂展をやっていたので見てきました。
浦上玉堂は以前ここでも書いたのですが、五十代にして武士を捨て文人墨客として生きる事を選んだ彼の生き方には自分としても戦慄するものを感じました。
我々サラリーマンはいつかは引退して自由人として行きたいと願うものですが、玉堂はこれほどの才能を持ちながらも生活には苦労していたようです。
今の自分を振り返るとまだまだ駄目な自分に歯軋りをするばかりです。

展示してある作品に関しては十分に満足させていただきました。しかし、狭い空間に沢山の作品を展示しているために少し食傷気味になった気がしたのは残念です。まさにポスターのような状態で展示されていました。上の階で所蔵展をしていたので仕方ないのかもしれませんが、もう少しゆったりしたスペースで展示して欲しかったです。
所蔵展にありました歌麿の肉筆画「納涼美人図」は素晴らしかったです。
千葉に行く機会がありましたらぜひ見ることをお勧めします。
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どしてもコメント欄に変なものが毎日数十件ずつ書き加えられてしまいます。申し訳ありませんが暫くの間コメント欄を閉鎖させていたがくことをご了解ください。管理不足で誠に申し訳ありません。
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by shou20031 | 2006-11-05 18:02 | 芸術


ホルスト・ヤンセン展ー八王子夢美術館

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「ホルスト・ヤンセン展」に行って来ました。


「ホルスト・ヤンセン展」 北斎へのまなざし・・・・正直「ホルスト・ヤンセン」良く知りませんでした。このキャッチコピーの北斎への眼差しに引かれて見に行きました。
見た感想は正月早々えらいもの見たな~って感じです。正月ボケしていたので絵でも見て気分を変えようと思ったのですが、暗くなってしまいました。芸術家や評論家はきっとヤンセンの高い芸術性を評価するのでしょう。私は評論家ではないので思った事を勝手に書きますが、ヤンセンは狂気と正気の間で作品を作っていたのではないでしょうか。ヤンセンの中の悩みや苦しみが全て作品に出ているような気がします。私には苦悩の作品としか見えませんでした。

ヤンセンは私生児で、若くして近親者の死を多く目にしています。彼の作品の中にはその悲しみを見るような気がするのは私だけなのかな?しかし、彼の作品を見ていると人間が誰でも持っている陰を正面から見詰めていたのではないかと思えてきました。私の場合陰の部分は人にも見せたくないし自分でも見ないようにしています。ヤンセンはそれを私に突き付けてくれたのです。”おまえの中の陰を忘れてはいけない”今日は哲学的です。興味があったら見て下さい
八王子夢美術館のホームページ


美術館の帰りに風邪を引いてしまいました。体育会系虚弱体質なのです。正月からいきなりこれでは先がおもいやられます。
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by shou20031 | 2006-01-05 22:17 | 芸術


本物のお坊ちゃま絵師  酒井抱一

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本物のお坊ちゃま絵師 酒井抱一(1761-1828)
酒井抱一は播州姫路藩十五万石の藩主酒井雅楽頭忠恭(ただずみ)の世子忠仰(ただもち)の次男として神田小川町の江戸の別邸に生まれた。母は山形城主大給松平乗佑(のりすけ)の次女里姫である。幼名を栄八、善次、字は忠因(ただなお)といい、号を抱一。画は狩野永徳.土佐光貞.丸山応瑞らに学び、後年尾形光琳に私淑して一家をなした。俵屋宗達、尾形光琳と並び、琳派を代表する画家で江戸琳派と呼ばれるc0039644_16225386.jpgc0039644_1623557.jpgc0039644_16232637.jpg

幼い時から武術とともに俳諧や仕舞を習い、青年に及んで国学、儒学を学んだが、同時にまた、蜀山人について狂歌に興じたり、歌川豊春流の浮世絵を描き、松平不昧の席に加わって茶道にも親しんだ。
 三十三歳で隠居して江東の番場の河岸に移ったが、この地は文人墨客の集まるところであった。この頃、たびたび吉原に遊んだ、「夜は明けてまた虫はなく別れかな」「暁の枕に入るや雨の雁」などという遊里の匂いのある句がある。
 三十七歳の時、出家剃髪して僧籍に入った。法名を等覚院少僧都文詮暉真という。先の隠居といい、この出家といい、確とした証拠はないが、松平定信の寛政の改革、中でも「異学の禁」といわれる、朱子学以外の学問を禁止した施策について意見書を老中首席の定信に提出した。この改革反対の意見書が酒井家に禍が及ぶのを恐れた家老達が、急いで抱一を隠居させ、さらに出家させたというのである。
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 その後、抱一は根岸五丁目の雨華庵に閑居し、土地の名物鶯にちなんで鶯村(おうそん)と号し、雨華庵と称した抱一の隠宅には、鵬斎をはじめ太田南畝こと蜀山人、谷文晁、大窪詩仏、市河米庵、そして梨園の市川団十郎、河東節の十寸見沙洲などが集まった。
 大儒であるゆえに、異学の五鬼に数えられ、疎まれて仕官経世の道も閉ざされ、町儒者として送らねばならなかった亀田鵬斎に心を寄せて、鵬斎の住居の近くに引越した。抱一と鵬斎の交友は鵬斎が亡くなるまで続き鵬斎が亡くなった翌年後を追うように抱一は六十八歳で亡くなる。
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 抱一には二人の弟子があった。鈴木蠣潭とその養子其一である。
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by shou20031 | 2005-06-29 21:13 | 芸術


真面目過ぎる 渡辺崋山

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真面目すぎる渡辺崋山(1793-1841)

 江戸後期の蘭学者・画家。名は定静、通称は登、崋山は号。崋山は号。始め華山と号し、三十五歳ごろ崋山と改めた。儒学を佐藤一斎・松崎慊堂(こうどう)に,絵を谷文晁らに学ぶ。幼少の頃から画にも親しみ、画業は,初期には沈銓・谷文晁の影響を強く受けたが,西洋画の陰影法を取り入れた肖像画や,遠近法を活用した山水画などに新風を開いた。
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代表作《鷹見泉石像》は国宝となっている。 田原藩は貧しい小藩で、父が長年病身だったため、幼いころから貧乏生活を強いられた。少年期から藩に仕えながら絵を学び、絵でを立てようと考えた。つまり、崋山にとって絵は、生活のための副業にほかならなかった。 。藩士としての崋山は、年寄役(家老)兼海防掛、江戸留守居役を歴任するなど、1万2000石の小藩の重臣として活躍した。40歳で藩の家老職に就いてからは、田原藩の繁栄に貢献。「報民倉」を設け、天保の飢饉のときに一人も餓死者をださなかったことは有名です。
高野長英らと西洋事情を研究し、鎖国の非を「慎機論」で記しましたが、幕府の批判とされ田原で蟄居を命ぜられてしまいました。藩に災いが及ぶのを恐れ自刃。享年49歳。
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幼い頃の崋山は何か考えに耽ると周囲が見えなくなるほど考えに没頭して、よく転んだり、溝に落ちたりした。究極は大名行列の前を横切って、切り殺されそうになった逸話が残っている。
また崋山が自害した理由は、江戸で門弟が田原で蟄居生活している崋山の生活をたすけるためにひらいた画会が不謹慎であるとあやまってつたえられ、藩主に迷惑がかかるのをおそれて自殺したと言うあくまでも生真面目過ぎる崋山の最後であった。
師の谷文晁が前年に亡くなっている。もし弟子思いの文晁が生きていれば崋山は死ぬことはなかったと思うのは浅はかなのだろうか。
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by shou20031 | 2005-06-24 18:37 | 芸術


評価の別れる 谷文晁

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弟子思いの師匠なのか権威主義なのか 谷文晁(1763-1840)
本名。谷正安。江戸下谷根岸に生まれる。父は田安家の家臣で漢詩人として名高い谷麓谷。
12 歳の頃より狩野派の加藤文麗 17 歳からは南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に学んだ。26 歳で田安家へ出仕し、 奥詰(おくづめ)となった。

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25歳のとき長崎遊学の途次,大坂にあって当時多くの文化人に影響を与えていた木村兼葭堂のところで,釧雲泉より南画の技法を受け,長崎でも清人張秋谷について南画を深めた。北画を主体に南画を折衷した新しい画風を開き人気を得た。松平定信にみとめられ、翌年海岸視察に随行して、洋風画法をとりいれた「公余探勝図」を制作。

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96年からは「集古十種(じっしゅ)」の編集にも参加して、古宝物の模写をおこなった。
c0039644_22265751.jpg文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。 40 歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。40歳以後はその落款署名の書形から「烏文晁」とか「蝶々文晁」とかいって、後年にいたって幸運に禍いされて、豪放の気性が露出し、鼻持ちならぬ覇権主義に陥ったようだ。


文晁は八宗兼学といれるほど、あらゆる画法を自家薬籠中のものとして健筆をふるい天保11年(1840)に78歳で没しています。 門下に渡辺崋山・立原杏所らを輩出しており、弟子に対してはとても思いやりのある師匠であったようで数多くの逸話がありますが、一方では松平定信と言う絶大な権力を元に江戸画壇の大御所と言われてから権威主義になったとも言われます。
権威主義と弟子を思い遣る師匠としての谷文晁、真っ二つに文晁の評価は別れるのです。
どんなに素晴らしい人でも周囲がよいしょを始めるとだんだん鼻持ちならない人物になってしまうのでしょうか。

『集古十種』『余探勝図』『日本名山図会』『歴代名公画譜』『漂客奇賞図』など多くの作品を残している。
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by shou20031 | 2005-06-19 20:59 | 芸術


元は武士 生真面目な絵師  安藤広重

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歌川広重(1797-1858)
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本名、安藤重右衛門。1797年(寛政9年)代々定火消同心をつとめる武家の子として江戸に生まれる。13歳で両親を失い、叔父に育てられ家督を継いだ。 15歳で歌川豊広に入門し、浮世絵を学ぶ。狩野派、南画、四条派などにも学ぶ。
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私は広重の雨や雪の絵が好きです。絵から雨音や雪の音が聞こえるのです。
27歳で火消同人を引退。家督を叔父の子を養子として家督を譲って浮世絵師として独立した。広重は両親が亡くなった後自分を育ててくれた叔父への恩返しとして叔父の子に安藤家を相続させたようである。定火消し同心は幕府御家人でも少録で生活苦の為に頻繁に御家人株を売り買いされた。河鍋暁斎の父は米屋だったのが定火消し同心の株を買って武士になった。

広重は尊敬していた、葛飾北斎のもとへよく教えを請うため訪れていた。
天保二年、葛飾北斎(72才)が「富嶽三十六景」を発刊した時と同じく、広重(35才)は「東都名所」を発表し風景画家としての評価を受ける天保3年(1832)36歳の夏に、徳川幕府が朝廷へ駿馬を献上する年中行事である「八朔御馬献上」の行列に参加します。翌年、このときの写生をもとに「東海道五拾三次」を描き、一躍世に認められることになるわけです。葛飾北斎とともに風景浮世絵師とし不動の地位を確立した。
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「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景、名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」溪斎英泉との共著「木曽海道六十九次」などなど次々と発表、晩年60才で制作を開始した「名所江戸百景」を完成させた、安政5年、62才で永眠した。
当時、大流行のコレラにかかったと伝えられる。
c0039644_10312033.jpg広重は「旅の絵師」「抒情の絵師」としての逸話が多い「阿波鳴門の風景図」の注文を受けていろいろ下絵を描いていたがある日忽然と姿を消してしまった。やがて一月あまりたって憔悴した姿で戻って来たので、どうしたのだと聞いてみると、江戸からはるばる阿波の鳴門まで出掛け船を雇い実際の渦を見てきたのだと言ったと言う。当時の画料は旅費の数日分の糧にしかならないほどのものだったそうです。この逸話は広重が絵に対する真摯な態度を感じなお且つ納得してしまうのです。実はこの話には後日談もあって実は広重は阿波に行ってなかったと言うのです。広重が見本にした絵があったと言うのです。では広重はどこへ行っていたのでしょう?まあそれは聞かずが華でしょうね。
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by shou20031 | 2005-06-13 21:55 | 芸術


孤高の画家 ポール・セザンヌ

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c0039644_20561217.jpg孤高の画家 ポール・セザンヌ(1839~1906)

近代絵画の父と言われる。南フランスのエクス・アン・プロバンスで裕福な銀行家の息子として生まれた。小説家・文学者として名声をはせたゾラは少年時代からの芸術仲間だった。自然主義的な描写、個性的表現、絵画の抽象性を理想的に総合しようと努力した。ロマン派の画家ドラクロワに傾倒し、わかい芸術家の中ではクールベや、評判の高いマネに心をひかれた。
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24歳の時、家族との口論のすえに、美術の勉強の許しをもらい、野心をもやしてゾラがいたパリに出る。初期作品に重要な影響をあたえたのは、ピサロであった。ピサロはセザンヌより年長だったがまだ世間にみとめられず、パリ郊外の農村に大家族とともにくらしていた。彼はセザンヌを精神的にはげまし、戸外の光を表現する印象派の新しい技法をおしえた。印象派は概して商業的にはあまり成功していなかった。セザンヌは「りんご一個でパリを驚かせてやる」と豪語するのですが、彼の作品はとりわけきびしい批評にさらされた。しかし二百年後の現在セザンヌのりんごの静物画は誰もがしっている。
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80年代には、セザンヌはパリでの人間関係をほとんどたち、故郷のエクス・アン・プロバンスですごすことが多くなった。セザンヌはカンバスに自然を目にしたときの生き生きとした感覚を再現して永遠に留めることを目指した。彼は一筆置く事にも熟考して一枚の絵を仕上げるのに長い時間が必要だった。86年にはゾラの小説の一節が自分の失敗をほのめかしていると思いこみ、昔なじみの友と絶交するにいたった。この年に父親の遺産を相続し、47歳にしてようやく経済的に自立した。
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1895年、パリの画商ボラールがセザンヌ展を企画し成功させた。1904年ごろにはおもな公式展でセザンヌがとりあげられた。
1906年エクス・アン・プロバンスで糖尿病を患いながらも写生をしていて、雷雨にあたり肺炎で没するころには伝説的人物になっていた。67歳だった。
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by shou20031 | 2005-06-09 20:47 | 芸術

    

永遠の愛ってあるのだろうか
by shou20031
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