呉起の与えられた地位は下大夫のままであるが、与えられた領地は全て国境に面しているとは言え、上大夫に等しかった。元公は領地として与えられても維持するのが難しい国境の土地を与える事で三桓子に文句を言わせなかった。
「既にここまで来てしまっている。君命に従おう。後は領地で国境警備をしながら考えるしかあるまい。今日は祝いの夜だ。思う存分飲んで来い」
呉起は難しい顔をして考えている皆に言った。苦しい戦いを終えた後だけに、せめて今夜だけは皆に楽しんでもらいたかった。自分がいては皆が寛げないと思い呉起は部屋を出た。
「お父様。おめでとうございます」
呉淑が侍女に手を引かれて呉起の出てくるのを待っていた。
「起きて待っていてくれたのか」
呉淑を抱き上げると、子供特有の甘い匂いがした。呉起は自分の心が寛いでゆくのを感じた。
「今夜は私と寝よう」
「英雄と一緒に寝るのですね」
呉淑が覚えたての言葉に舌を縺れさせながら嬉しそうに言った。
「一体だれがそんな言葉を教えてくれたのだ」
「皆が呉淑の父上は英雄になられたと教えてくれたのです」
呉淑はそう言うと呉起に甘えるように抱きついた。呉起は母親を亡くしても、気丈に振舞う呉淑が愛しくて頬をつけるように抱きしめた。
「父上。髭が痛い。それに汗臭いわ」
「おお。すまぬ。寝る前に湯でも浴びてくるか」
呉起は呉淑を抱き下ろして湯を浴びに行った。垢に塗れた体を湯で洗い流して寝室に戻ると、すでに呉淑は寝台の上で寝むっていた。呉淑の額に掛かる髪を指先でかきあげると、締め付けるような悲しみが呉起を襲った。今ここに李香を呼び戻す事が出来るなら、全てを棄ててもいいと思った。
曲阜の街の人々が新しい年を迎える準備で忙しい年の暮れに、元公が閣議の途中に気分が悪いと退出し、そのまま亡くなられた。
元公の突然の死に毒殺説まで噂された。直ちに太子顕が位につき、穆公となった。喪が発せられ華美な行事が中止となった。
やがて元公の葬儀が終わった頃に、曲阜の街に呉起の悪い噂が立ち始めた。呉起が斉軍に大勝できたのは、斉と密約を行ったからではないかとか。斉人の妻を切ってまで将軍になったにも拘らず、恩賞が少ないので謀反を起こすのではないかとか。根も葉もない噂が広がった。
「どうやら季亮子様の家人が広めているようです」
超耳が街中の噂の出所を調べた。
「何の為にこんな噂を流すのだ」
蔡信が超耳に尋ねた。
「『呉起将軍に謀反の企てあり』とする為の根回しだ。我々が領地で国境警備の為に兵の鍛錬でもすれば、充分な謀反の証拠だ」
超耳が噂を調べながら考えついた事を話した。
「どうすれば疑いは晴れるのだ」
「季桓子に大金を贈れば赦して貰えよう」
「どの位贈ればいいのだ」
「千斤や二千斤は贈らねばなるまい」
「そんなにか」
「命との引き換えだ。全財産を交換しても惜しくないだろう」
超耳と蔡信が呉起の命の値段を心配して話していると、玄関に顔を隠した宮廷の高官が現れた。
「呉起殿に内密にお会いしたい」
「どなたでしょうか」
蔡信は不審な者は通さないと無言の態度で示した。
「蔡信殿、私だ」
高官は顔を隠していた布を上げた。季亮子と親しくしている陶固が顔を隠して呉起に会いに来るのは相当な訳があるのだろうと、蔡信は何も尋ねなかった。
「陶固殿。どうぞこちらへ」
蔡信はそう言うと呉起の仕事部屋に案内した。
「突然尋ねて申し訳ない。どうしても呉起殿に伝えたい事があって参りました」
陶固が呉起の部屋に入ると顔の覆いを取って挨拶した。
「季亮子様の事でしょうか」
「呉起殿のことだから、ある程度は予測されているとおもいますが、呉起殿は斉軍にあまりにも見事に勝ちすぎたのです。あなたをこのままにしておけば、いつか穆公と結び、自分達も斉軍のように滅ばされるのではないかと季亮子様は恐れています。ですから呉起殿が任地に赴かれた後に、証拠を捏造し、曲阜に召還して謀反の疑いで誅殺するつもりです」
「覚悟はしていましたが。やはりこの国を棄てるしかありませんか」
「それが一番懸命な方法だと思われます。呉起殿であれば、いずれの国も将軍として招きましょう」
「陶固殿。私の家を訪れれば疑いを招きましょう」
「かつての過ちの償いをしたかったのです」
陶固はそう言うと懐から金を出した。金袋の中に五十斤入っていた。
「元金のみの返却ですが。昔の借金を返しに来ました」
陶固はそう言うと嬉しそうに笑った。
「お体に気をつけて下さい。私はこれからもあなたの友でありたいのです」
陶固はそう言うと顔に覆いをして部屋を出た。呉起は卓の上に置かれた五十斤を大切にしまった。
華元や李克など斉軍と激しく戦った者達は、新たな領土で兵を練り、三桓子と戦う事を主張したが、呉起は反対した。
新たに君主となった穆公が、三桓子を敵視していないので、戦えば李亮子の思惑通り謀反を起こすことになった。
「幸い斉軍との戦いで我々は武名と富を得ることが出来た。このまま戦えば犬死だが、魯の国を棄ててみれば、新たなる夢を手にいれる可能性は開けるのだ。我等を必要としなところで争わず、必要とするところで皆の力を発揮しよう」
呉起は戦いを主張する者に語りかけると言うよりも自分に言い聞かせるように言った。
「魏の文公が広く人を求めていると聞いた。斉軍に大勝した呉起まらばきっと大歓迎だろう」
諸国の情報に通じている超耳思い出したように言った。
「李亮子は憎いが、一緒に戦った魯の国の兵とは争いたくないな」
蔡信がそれまで閉じていた目を開いて言った。蔡信の言葉に華元は大きく溜息をついた。
「戦うが下策、逃げるが最上の策か。糞面白くない」
華元が破棄捨てるように言うと、李克は華元の言葉に手を打って笑った。
呉起は家人に魯を離れる事を伝え、魯に残る者には充分に金を与え、どうしても呉起と共についていきたい者と共に曲阜の街を旅立つ決意をした。それでも百人近くの人間が呉起とともに行くことを願った。
呉起は新たな領地に向かうようにして曲阜の街の城門を出た。
「やはり旅は気持ちがいいな。俺達には宮仕えは合っちゃいないのさ。礼儀に作法、気楽に屁もできない。宮廷に行くと聞いただけで熱が出たぜ」
既に上士の扱いを受けている超耳が馬車にも乗らず歩いて言った。
「帝丘の街を出た頃は金もなく、飯の心配ばかりしていたけど、それでも毎日が楽しかったものな」
華元が馬車の手綱を捌きながら言った。
「しかし帝丘の街を出た時も、たしか公室の争いに巻き込まれて旅に出たんだよな」
李克は自分が改良した石弓をいじりながら言った。
「魯も斉もしっかりした君主がいないから、敵に攻められるよりも、政治の争いで国の力を衰えさせている。迷惑するのはいつも民百姓なのです」
快がまるで吐き棄てるように言った。
城門の脇に、呉起が賊曹掾であった頃、夥しい数の盗賊の首が晒されていた台には数羽の烏が止まっているだけであった。
「魯の国に来て十年私は多くの物を得る事が出来たが、最も大切な者を失ったようだ」
呉起は曲阜の城門を振り返って見て言った。
「お父様どちらにゆかれるのですか」
呉淑が呉起の膝の上で尋ねた。
「大切な者も得たではないか」
蔡信は呉淑の黒髪を撫でて言った。
呉起は魯の国を棄てた後、魏の文公に迎えられ西河の太守として秦や韓など諸侯相手に戦い、歴史に名を残す圧倒的な強さを示した。文公の全幅の信頼を得て、76戦64勝12引分けで無敗の将軍として呉起の名は怖れられた。しかし文公が亡くなり武公の時代になると、魏の国も追われる。
やがて楚の国の悼公と出会い、絶対的な信頼を得た呉起は宰相となり大改革を行って楚を強国とする。しかし悼公の死後、改革に反対した公族や大夫に殺されてしまう。楚がこのまま呉起の改革を継続していれば、秦に変って楚が中国を最初に統一した国になったのではないかと言われている。
覇業を志す君主にのみ、天才的戦略家呉起の才能を活用する事が出来た。しかし、保守的な君主や卿大夫にとって、呉起は己の地位を脅かす恐怖の存在となり、最後には命まで奪われてしまうが、それはこれより30年後の事である。
若き日の呉子 終わり