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「小説・詩の部門」
本物のお坊ちゃま絵師 酒井抱一(1761-1828)
酒井抱一は播州姫路藩十五万石の藩主酒井雅楽頭忠恭(ただずみ)の世子忠仰(ただもち)の次男として神田小川町の江戸の別邸に生まれた。母は山形城主大給松平乗佑(のりすけ)の次女里姫である。幼名を栄八、善次、字は忠因(ただなお)といい、号を抱一。画は狩野永徳.土佐光貞.丸山応瑞らに学び、後年尾形光琳に私淑して一家をなした。俵屋宗達、尾形光琳と並び、琳派を代表する画家で江戸琳派と呼ばれる
幼い時から武術とともに俳諧や仕舞を習い、青年に及んで国学、儒学を学んだが、同時にまた、蜀山人について狂歌に興じたり、歌川豊春流の浮世絵を描き、松平不昧の席に加わって茶道にも親しんだ。
三十三歳で隠居して江東の番場の河岸に移ったが、この地は文人墨客の集まるところであった。この頃、たびたび吉原に遊んだ、「夜は明けてまた虫はなく別れかな」「暁の枕に入るや雨の雁」などという遊里の匂いのある句がある。
三十七歳の時、出家剃髪して僧籍に入った。法名を等覚院少僧都文詮暉真という。先の隠居といい、この出家といい、確とした証拠はないが、松平定信の寛政の改革、中でも「異学の禁」といわれる、朱子学以外の学問を禁止した施策について意見書を老中首席の定信に提出した。この改革反対の意見書が酒井家に禍が及ぶのを恐れた家老達が、急いで抱一を隠居させ、さらに出家させたというのである。
その後、抱一は根岸五丁目の雨華庵に閑居し、土地の名物鶯にちなんで鶯村(おうそん)と号し、雨華庵と称した抱一の隠宅には、鵬斎をはじめ太田南畝こと蜀山人、谷文晁、大窪詩仏、市河米庵、そして梨園の市川団十郎、河東節の十寸見沙洲などが集まった。
大儒であるゆえに、異学の五鬼に数えられ、疎まれて仕官経世の道も閉ざされ、町儒者として送らねばならなかった亀田鵬斎に心を寄せて、鵬斎の住居の近くに引越した。抱一と鵬斎の交友は鵬斎が亡くなるまで続き鵬斎が亡くなった翌年後を追うように抱一は六十八歳で亡くなる。
抱一には二人の弟子があった。鈴木蠣潭とその養子其一である。