中国歴史小説と幻想的な恋の話


真面目過ぎる 渡辺崋山

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真面目すぎる渡辺崋山(1793-1841)

 江戸後期の蘭学者・画家。名は定静、通称は登、崋山は号。崋山は号。始め華山と号し、三十五歳ごろ崋山と改めた。儒学を佐藤一斎・松崎慊堂(こうどう)に,絵を谷文晁らに学ぶ。幼少の頃から画にも親しみ、画業は,初期には沈銓・谷文晁の影響を強く受けたが,西洋画の陰影法を取り入れた肖像画や,遠近法を活用した山水画などに新風を開いた。
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代表作《鷹見泉石像》は国宝となっている。 田原藩は貧しい小藩で、父が長年病身だったため、幼いころから貧乏生活を強いられた。少年期から藩に仕えながら絵を学び、絵でを立てようと考えた。つまり、崋山にとって絵は、生活のための副業にほかならなかった。 。藩士としての崋山は、年寄役(家老)兼海防掛、江戸留守居役を歴任するなど、1万2000石の小藩の重臣として活躍した。40歳で藩の家老職に就いてからは、田原藩の繁栄に貢献。「報民倉」を設け、天保の飢饉のときに一人も餓死者をださなかったことは有名です。
高野長英らと西洋事情を研究し、鎖国の非を「慎機論」で記しましたが、幕府の批判とされ田原で蟄居を命ぜられてしまいました。藩に災いが及ぶのを恐れ自刃。享年49歳。
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幼い頃の崋山は何か考えに耽ると周囲が見えなくなるほど考えに没頭して、よく転んだり、溝に落ちたりした。究極は大名行列の前を横切って、切り殺されそうになった逸話が残っている。
また崋山が自害した理由は、江戸で門弟が田原で蟄居生活している崋山の生活をたすけるためにひらいた画会が不謹慎であるとあやまってつたえられ、藩主に迷惑がかかるのをおそれて自殺したと言うあくまでも生真面目過ぎる崋山の最後であった。
師の谷文晁が前年に亡くなっている。もし弟子思いの文晁が生きていれば崋山は死ぬことはなかったと思うのは浅はかなのだろうか。
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by shou20031 | 2005-06-24 18:37 | 芸術

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