中国歴史小説と幻想的な恋の話


評価の別れる 谷文晁

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弟子思いの師匠なのか権威主義なのか 谷文晁(1763-1840)
本名。谷正安。江戸下谷根岸に生まれる。父は田安家の家臣で漢詩人として名高い谷麓谷。
12 歳の頃より狩野派の加藤文麗 17 歳からは南蘋(なんぴん)派の渡辺玄対に学んだ。26 歳で田安家へ出仕し、 奥詰(おくづめ)となった。

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25歳のとき長崎遊学の途次,大坂にあって当時多くの文化人に影響を与えていた木村兼葭堂のところで,釧雲泉より南画の技法を受け,長崎でも清人張秋谷について南画を深めた。北画を主体に南画を折衷した新しい画風を開き人気を得た。松平定信にみとめられ、翌年海岸視察に随行して、洋風画法をとりいれた「公余探勝図」を制作。

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96年からは「集古十種(じっしゅ)」の編集にも参加して、古宝物の模写をおこなった。
c0039644_22265751.jpg文晁は中国画や洋風画、大和絵や琳派風の作品などあらゆる画風を手がけましたが、主流は中国画を基本とした山水図です。 40 歳頃までの前半期の作品は「寛政文晁」とも呼ばれます。40歳以後はその落款署名の書形から「烏文晁」とか「蝶々文晁」とかいって、後年にいたって幸運に禍いされて、豪放の気性が露出し、鼻持ちならぬ覇権主義に陥ったようだ。


文晁は八宗兼学といれるほど、あらゆる画法を自家薬籠中のものとして健筆をふるい天保11年(1840)に78歳で没しています。 門下に渡辺崋山・立原杏所らを輩出しており、弟子に対してはとても思いやりのある師匠であったようで数多くの逸話がありますが、一方では松平定信と言う絶大な権力を元に江戸画壇の大御所と言われてから権威主義になったとも言われます。
権威主義と弟子を思い遣る師匠としての谷文晁、真っ二つに文晁の評価は別れるのです。
どんなに素晴らしい人でも周囲がよいしょを始めるとだんだん鼻持ちならない人物になってしまうのでしょうか。

『集古十種』『余探勝図』『日本名山図会』『歴代名公画譜』『漂客奇賞図』など多くの作品を残している。
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by shou20031 | 2005-06-19 20:59 | 芸術

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