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中国歴史小説と幻想的な恋の話


狩野芳崖と橋本雅邦

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狩野芳崖(1828-1888)と橋本雅邦(1835-1908)に友情を想う
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狩野芳崖。長府藩の御用絵師狩野晴皐の長男として下関に生まれる。父に絵の手ほどきをうけたのち、19歳のころ上京、橋本稚邦と同日(弘化3・1846年4月18日)に奥絵師木挽町狩野の勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、僅か4年で塾頭にまでなった。芳崖の才能は狩野派の絵の領域を飛び出てしまい、雅信に破門されてしまうが、普段物静かな橋本雅邦が師に取りすがるようにして芳崖の破門の許しを請うたと言う。芳崖は七歳年下の雅邦に救われた。それも一度ならずも三度までも、芳崖を破門するならば自分を破門してからにせよと、普段物静かな雅邦は師に迫ったと言う。私はこれほど強い友情に結ばれた二人をただただ羨ましく思う。師の雅信は芳崖を失う事よりも雅邦を失うことを怖れたとも言われる。
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しかし、江戸幕府崩壊・明治維新によっ他の狩野派の絵師と同様に職を失ってしまい、生活苦とたたかうことになる。一時絵筆を捨て国事に尽くすが、貧困のあまり貿易商の下絵書きをしていた。
やがて島津公爵家の庇護をうけ、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。。岡倉天心と共に図画取調所を設ける。美術学校の設立に尽力したが開校前に没する。
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橋本雅邦 武州川越藩のお抱え絵師、橋本養邦の長男。芳崖と同門であった。芳崖が一時山口に帰郷したときには雅信の塾の塾頭となった。
気迫のこもった一作で、京都で開かれた第四回内国勧業博覧会に出品された。川合玉堂がこの絵に感動して雅邦に師事した話は有名である。温厚な人柄で東京美術学校では流派にこだわらない自由教育を施し、大観、観山、春草ら、個性ある画家を育てた。芳崖亡き後も天心らとともに日本美術院の創立を果たした。
by shou20031 | 2005-05-26 22:15 | 芸術

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by shou20031
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