北斎に文句を言った男 鍬形惠斎(1764-1824)
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「小説・詩の部門」
江戸浜町に生まれる。父は静岡出身で、江戸に出てきて畳屋をしていた。恵斎は、幼い頃から北尾重政の門人となった。十五歳で三二郎の名で描かれた黄表紙の挿絵を描く。
北尾政演(後の山東京伝)・窪俊満などがおり、この三人で北尾派三羽烏と言われた。やがて北尾政美の名を貰い、武者絵、浮絵、鳥瞰図などを描いた。
寛政六年(1794)に、津山藩松平家のお抱え絵師となり、名前を北尾を改め鍬形恵斎紹真と改めた。やがて狩野惟信のもとで、狩野派の画風を学んだ。
浮世絵師から大名のお抱え絵師になったのは非常に珍しいことであった。
お抱え絵師としての恵斎は、 北斎に先駆けて絵手本類を描くようになる。『略画式』はのちの人物・鳥獣・山水・草花・魚貝など「北斎漫画」の原型となった。恵斎はまた略画以外にも、鳥瞰図である名所図会「江戸一目図屏風」を描いている。北斎の「東海道名所一覧」は惠斎が描いた後である。惠斎は読物に北斎は物真似が上手いと皮肉った。北斎漫画も決して北斎のオリジナルでないと思うと少し興ざめではある。
しかし、武士となっていた惠斎はそれ以上は責めなかった。
惠斎の「近世職人尽絵詞」は肉筆画の傑作と言われている。
津山藩のお抱え絵師になったが、江戸に在住しており 津山には一度行ったのみである。
武士のしがらみを嫌う鳥文斎栄之のような人物もいるし、下級武士でも武士になりたかった絵師がいたり人の考えは実に様々ですね。一部福岡大学の画像を借用させていただいております。