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「小説・詩の部門」
祇園南海(1676-1751)に持つべき友を学ぶ
絵を見ればわかるように真面目な人なんです。正直この人のことを書くのは止めようかと思ったくらいです。でも風雅の気持ちを持っている天才詩人で十九歳年上の新井白石との素晴らしい友情を知っておいて欲しいのです。
紀州藩医の息子として江戸で生まれ、木下順庵に程朱学を学ぶ。17歳の時に一晩で百編の詩を作ったと言う天才詩人でもある。新井白石、室鳩巣、雨森芳洲と共に木門の四哲と言われた。白石は同門の南海の詩を絶賛したという。天才詩人である。没後何冊もの詩集が出されている。蕪村は南海や柳沢淇園と交わることにより文人画の世界をさらに切り開いてゆくことになる。南海は父の隠居により、儒者として200石で仕える。
しかし、25歳の時突然「不行跡」「放蕩無頼」で城下を追放され城下郊外の長原村で十年間蟄居を命じられる。若気の至りで南海は儒者として重役もしくは藩主の行いを痛烈に批判したのではないだろうか。ただ詩や絵を描いているだけでは蟄居は命じられない。
おそらく自分の状況を友であり父親のような白石には伝えたのではないでしょうか。それも素晴らしい漢詩にしたのでしょう。血気盛んな十年間彼は自分の詩を絶賛してくれた白石に詩を送ることしかなかったのかもしれません。
やがて徳川吉宗が藩主になると十年間の蟄居を解かれる。翌年朝鮮通信使の来日に公儀筆談として勤める。その功績により旧禄に戻される。南海は突然光明に照らし出される。
それは、六代将軍家宣の儒者となった新井白石が吉宗に南海の才能を埋もらすべきではないと説き、さらに公儀筆談として南海を呼び寄せその実力を公けしたからなのです。持つべきはこう言う刎頚の友ですもし新井白石のような友がいなければ許されても歴史に祇園南海の名を残すことはなかったでしょう。
その後藩校設立の責任者となり、督学(校長)となる。76歳で亡くなるまで関西の碩学となり多くの知識人や文人墨客と交わる。池大雅や与謝蕪村は言うまでもなく、伊藤若冲、曾我蕭白にも影響を与える。南海の絵は正直面白くも何ともないが中国文人画を蕪村や大雅に伝えた功績は大きい。
著書に「一夜百首」「南海詩法」「南海詩訣」「詩学逢原」「湘雲鑚語」「明詩俚評」「南海先生詩文集」など数多くある。