中国歴史小説と幻想的な恋の話


五十歳にして全てを捨てて文人となった 浦上玉堂

c0039644_2128967.jpg

五十にして起つ浦上玉堂(1745-1820)

岡山の下級藩士生まれる。若くして弾琴の名手として日向延岡藩主に教授する。詩や書や雅楽まで造詣が深いかった。岡山鴨方藩の大目付まで出世するが失脚する。そしてなんと50歳にして脱藩して文人墨客との交流を深める。文人画家玉堂の名前が世間に知れるのは60代を過ぎてからです。玉堂は真面目な性格が評価され大目付まで出世した能吏であった。しかし理由は明らかでないが何らかの理由で失脚した後、藩籍を捨てて、文人墨客として名を成す道を選んだ。堅実な人だったらしく金に瀕した跡がみられず、常に糊口を凌ぐ道を確保していた。詩集を二冊出版している詩人でもある。
c0039644_2128473.jpgc0039644_2205173.jpg


玉堂の作った七弦琴と浦上氏の祖は竹内宿禰だと言う自筆の系図。信じるかどうかはあなた次第です。
浦上玉堂が文人として京都に出てきた時には文人画家の双璧与謝蕪村と池大雅は亡くなっていた。晩年には押しも押されぬ文人画の大家として知られた。
c0039644_22192221.jpgc0039644_22194336.jpgc0039644_22204766.jpgc0039644_22312419.jpg


c0039644_2340115.jpg
もとより玉堂の絵は蕭白や蘆雪のように師匠について習い覚えた画ではないが、それゆえに何事にも捉われない自由闊達な筆使いが素晴らしい。俺にも描けそうだと思った方がいたら描いて見て下さい。描けそうで描けないのが文人画なのです。玉堂は旅に出て多くの文人墨客と交わり京都で七十六歳で亡くなった。墓は本能寺にある。
左の絵は国宝になった「東雲篩雪」川端康成記念会蔵
玉堂の母はこれからの武士は武芸よりも学問が出来なければならないと孟母と言われたほど、彼に対して激しく学問をさせた。しかし、玉堂の興味は詩画や弾琴に向いていた。皮肉にも失脚後の彼の生活を救ったのは詩画弾琴の芸だった。自分が会社を離れた時身を助ける芸がないことに鳥肌が立つ。
[PR]
by shou20031 | 2005-04-26 12:20 | 芸術

<< 書と画の大家 池 大雅(いけの...      私も美術館でボランティア >>

永遠の愛ってあるのだろうか
by shou20031
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31


人気blogランキングへ
訪問された方は上をクリックして下さい。励みになります.
{小説・詩の部門}
クリックは一人一日一回のみ有効です。


翔へのご連絡は
shou20031@
excite.co.jp
カテゴリ
以前の記事
検索
ライフログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧