中国歴史小説と幻想的な恋の話


今夜は長谷川等伯について語ろうよ

「雪舟五代」長谷川等伯

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  長谷川等伯は「雪舟5代」を名乗り、狩野派に対抗して長谷川派を起こした桃山時代の画家。

  能登の国、畠山氏の家臣奥村文之丞宗道の子として生まれ、後に染物業長谷川宗清の養子となり長谷川姓を名乗る。33歳まで能登で活躍、養父母が亡くなったのをきっかけに文化の中心であった京都に妻子を伴って上洛した。
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  人生50年の時代に等伯は30代を越えて勝負に出た。名刹大徳寺の頭塔総見院の襖絵や山門の天井画を描き,51歳の時に雪舟等揚の一字を貰って、それまでの雅号信春を等伯に改名している。

50歳の等伯は和尚がいない隙に大徳寺の襖に「山水図」を描いた。大徳寺は禅寺では名刹である。時の権力者へ自分の絵を売り込むために無断で描いたと言うエピソードがある。狙いは当たり天下一の茶人利休の知遇を受け、やがては豊臣家の絵師となる。兵法を知っている。

52歳の時に仙洞御所の障壁画の仕事を狩野派に奪われ、これ以降狩野派との激しい対立が続く。当時京都第一の寺祥雲寺障壁画を製作、国宝「松林図屏風」を描くが、等伯の嫡男久蔵(26歳)を失くす。早すぎる久蔵の死が天才画家「等伯」亡き後の長谷川派の衰退を決定ずけたと言われている。

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等伯は60代になっても次々と大作を製作し続けて61歳の時、伝統の狩野派に対抗して「雪舟五代」を名乗り長谷川派の結束をはかる。

66歳の時「法橋」に叙せられる。68歳のときの画銘に「法眼」の書き込みがみられる。

72歳の時江戸の徳川家康に呼ばれ、長谷川派の命運をかけて江戸に下るも江戸到着2日後に亡くなったといわれる。

長谷川等伯が活躍した時期、京都画壇は画家集団狩野派が全盛を誇っていた。そこに30歳を越えた男が己の画筆一本で殴りこみを駆けた心意気を感じずにはいられない。灰汁が強いが尊敬するに値する男の生き方である。

出光美術館で4月17日まで長谷川等伯展を開催している。興味のあるかたはどうぞ。ただし松林図屏風(国宝)や今回紹介した写真の展示はない。
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by shou20031 | 2005-04-05 16:55 | 芸術

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